鍋島生三入道と監物 

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鍋島生三入道と監物 

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■所在地佐賀市兵庫町
■年代中世
■登録ID584

鍋島生三入道は鍋島加賀守直茂の一門で、天文22年(1553)に生まれ、幼時から賢く他に優れていた。性は剛直、忠誠で非常に孝心深く、また仏教に帰依して入道となり、生三斎と号した。

元亀3年(1572)龍造寺隆信は姉川城主信安を目達原に移し、その後に鍋島清久の嫡男清正の子、周防守賢純の三男道泉(生三斎)を城主とし、信安の所領を継がせようとした。
やがて鍋島直茂が後事を託するに足る人材を求めた時、下村生運も「高楊庵住持道泉は御家と御縁の方であり、希代の器量人であるから、還俗を仰せつけられるようお頼みなされては。」と申し上げた。直茂は早速生運を使者として通うこと数十度、ようやく道泉の承諾を得た。それでも髪だけはといって、入道姿のままで押し通した。
下村生運入道、藤島生益入道、鍋島生三入道は、鍋島に三入道ありで有名であったが、この三入道の二人までが、兵庫の住人であったことは、当町区の誇りであろう。

生三入道は堀立の光円寺の開基で、享年77歳であった。監物は生三入道の子である。その知行所は堀立および他の2か村にわたって、288石であった。光円寺住職生三(しょうさん)家はその子孫である。堀立分外野地区の東方、土手に沿うて濠に三方囲まれた約4反歩(3969平方メートル)の一角屋敷があるが、これを生三屋敷という。今は多くの人々に分割されているが、数十年前はここの茶摘みは初夏を迎える農家にとって楽しい行事の一つであった。

出典:兵庫町史p65

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