西中野天満宮

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西中野天満宮

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■所在地佐賀市兵庫町西中野
■年代中世
■登録ID605

祭神 菅原道真 大綿津見命 天香具山神 多岐津姫命 天御中主命
由緒 中佐賀崇廟中野村鎮守天満宮の由緒書きの中から要点をあげると、昔は1町歩の境内で、四方に大堀があった。これは中野氏か、下村氏の館もしくは出城ではなかったかと伝えられている。松、杉、樫などの大木が生い茂り、中野、下村両家の崇廟であるという石の祠があった。
龍造寺隆信、鍋島直茂らの尊信ははなはだ厚く、永禄6年(1563)当社を再建した。その後も出陣の時には必らず当社に参詣して戦勝を祈願し、そのつど勝利を得、奇瑞につくづく感心されたと伝えられる。
隆信は自筆の大文字「天満宮」の掛物、その他鎧、弓、槍、旗などを寄進し、直茂は刀(関兼光)を奉納された。光茂時代、拝殿その他が大破したので、延宝4年(1676)造営している。
元禄12年(1699)、朝廷の大仏師如鑑に天満宮の御神体を造立させ、宝暦2年(1752)成就寄進された。明治4年10月村社となり、明治42年兵庫町、川西地区の神社は、ほとんどここに合祀された。
なお明治、大正の頃まで、この地方に歌い伝えられた次のような俚謡がある。
「中野のじゃあどん(官主)起ってみやい、起っぎいよかことあろうばん。」龍造寺隆信が出陣のおり、この天神様に戦勝の祈願をした。挨拶に出た官主は座を起とうとしたが、隆信の威風堂々とした姿に腰が抜けて起てなかった。これを見ていた近侍のさむらいが、手拍子打って歌ったのが、この唄の始まりだという。その後子どもが喧嘩して転んだり、幼い子をあやす時に、これを歌ったそうである。
龍造寺、鍋島家の尊信が厚く、由緒書や前記宝物なども多かったが、神社の衰退とともに、これらの宝物も、しだいに散逸しつつあるのは残念である。

出典:兵庫町史p198

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