一本松戸次(へつぎ)塚

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一本松戸次(へつぎ)塚

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■所在地佐賀市巨勢町
■登録ID646

道崎一本松道崎橋横に1個の扁平な自然石が建っている。高さ3尺、人呼んで戸次塚という。元亀元年(1570)8月23日大友宗麟佐賀城攻のとき戦死した豊後の将、戸次式部大輔の戦死の碑という。
『直茂公三徳譜』に曰く
敵の大将大友八郎親秀討たれて北山の敵は残らず退散しけれど、東の口、阿弥(あね)、境原、茶臼山の敵はまだ退かず。然るに高尾まで攻寄せたる戸次式部大輔が5千余騎次第に落失せて陣所まばらになりし由城中に聞こえ、さらばその敵追い払わんと同23日納富但馬守先鋒にて隆信公自ら打出られ高尾に於て御一戦ある。直茂公と龍造寺上総介家晴は中島より敵の後に廻り鉄砲を打ちかけらる。かかりし程に戸次が陣騒ぎ立てことごとく東をさして敗北す。大将式部大輔は逃げる敵を下知してありけるが、納富が与力辻佐馬允に渡りあい、討たれて首をとられけりと。
或記に曰く
戸次式部大輔この時自殺す。その印、今の一本松也と、しかし、北肥戦記には、これが臼杵式部大輔となっており両者いずれか明らかでないが、土地の人は戸次(とじ)塚、または戸次(とつぎ)塚といっている。
龍造寺方では、これら戦死者の首級をあつめて葬ったといわれ、後、大分に照会、調査の上戸次(へつぎ)塚として「佐賀市の文化財」には掲載している。

出典:巨勢P.24

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