売茶翁と顕彰碑

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売茶翁と顕彰碑

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■所在地佐賀市巨勢町東巨勢
■登録ID652

東巨勢、龍津寺の名僧であった月海禅師は、姓は柴山、名は元昭で売茶翁または高遊外と号し、日本煎茶道の祖としてその道の人から仰がれている。
売茶翁は延宝3年(1675)佐賀市蓮池町西名の道えん(巨勢町東巨勢との境で諸富豆腐のすぐ東付近)で柴山杢之進の三男として生まれ幼名を菊泉と言いました。翁は11歳のとき龍津寺の化霖和尚の門に入りました。龍津寺は黄檗宗万福寺独湛の弟子化霖の開山です。翁は出家の翌年化霖に連れられて万福寺で独湛から年少で才幹に富んでいると誉められたそうです。その後、少年月海は、禅僧として激しい修行に励みました。22歳の時胃を患ったが治らないのは修行が足りないためだとして、病が治らないのに雲水に身を託し修行の旅に出ました。仙台の月耕和尚や近江の湛道和尚など各地の名僧などに学び、後、佐賀の雷山で断食苦行などして龍津寺に帰りました。こうして龍津寺で14年化霖に仕えましたが、その間禅僧としての修行だけでなく広く学問に力を入れ、禅と学問に優れた僧として成長しました。そのころ長崎で中国人の煎茶趣味を知りこれも習得し、茶の湯も習得したようです。
化霖の死後、弟弟子の大潮を呼び寺を譲り、京都に上り、念願の売茶の道に入りました。その時56歳でした。
当時、京都では、売茶や煎茶も流行し始めていましたが、翁は東福寺近くの道の傍らや相国寺や三十三間堂の門前などで茶席には「茶代は黄金より半文銭まではくれしだい、ただのみも勝手、ただよりは負け申さず」と書いたといいます。
翁の名利に頓着しない性分がこの中にあらわれています。
当時の僧が権門に出入りし僧の地位を求め、お布施を求める姿に反発し功名や富貴を度外視して、茶を売って飢えを防げばよいとして、春は花、秋は紅葉を求め、茶道具を担って客を待ち、すばらしい話をする姿に文人墨客も集まり、その名は遠く広がり、おう茶を受けねば、文化人といわれぬというくらい評判になりました。
後に京都の岡崎で茶道具を焼いて門を閉じ89歳で亡くなりました。
人々は煎茶の祖として尊敬し、宇治の黄檗宗本山万福寺に売茶堂が建てられ、翁の木像がまつってあり、龍津寺跡に煎茶の森本氏や檀徒の中島氏などにより売茶翁顕彰の碑が建てられています。

出典:巨勢町見てあるきP.50巨勢P.26巨勢町の歴史散歩P.48

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