古賀清右衛門(緞通碑)

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古賀清右衛門(緞通碑)

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■所在地佐賀市嘉瀬町扇町
■年代近世
■登録ID69

 生年月日不明、元禄12年(1699)7月10日没
 扇町出身、農家に生れたが志を立て韓国に渡り、中国伝来の「毛氈」の手法を学び、帰国して「扇町毛氈」を創作した。堅固で多様な色彩、紋様が人気を呼び、当時扇町一帯に10数軒の機織屋があって繁栄した。これが藩に認められ「鍋島緞通」として藩の御用商品となり、一般庶民間の売買は禁止されていた。
 幕府への献上品ともなり藩の貴重な商品となっていた。明治維新で職を失った士族救済のための「士族授産」として技術指導が行われたという。顕彰碑(緞通碑)には「緞通由来記」が刻まれている。
 墓は扇町の苗運寺に在る。

出典:嘉瀬町史 (P.97)

鍋島緞通(なべしまだんつう)について
鍋島緞通は、佐賀市嘉瀬町の苗運寺に建つ通称「緞通碑」によると、「元禄年間(1688~1704)に農家の主、古賀清右衛門が外国人から氈(せん/毛織の敷物)の織りかたを習い、その技法を12戸に教え、佐賀藩主はこれを保護し、世襲を認め、藩の御用品として民間の売買を禁止した」ことが記されている。江戸時代に佐賀藩から幕府、大名家等への献上品として用いられ、「扇町紋氈」「花毛氈」と呼ばれたが、明治時代以降は一般への販売が始まり、「鍋島緞通」と呼ばれるようになる。ウイーン万国博(1873)に出品、受賞したことなどもあり、盛んに織られたが、次第に機械織りに押され衰退し、現在では吉島家のみで織られている。大阪府や兵庫県に伝わる「境緞通」や「赤穂緞通」は、いずれも江戸時代の鍋島緞通にならって幕末に始まっており、その技術は現在まで受け継がれ、それぞれ、大阪府無形民俗文化財、及び赤穂市無形文化財に指定されている。

出典:文化振興課提供

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