本庄町の変遷

本庄町の変遷

■所在地佐賀市本庄町
■年代近代
■登録ID701

本庄町の藩政時代は、本庄東西を本荘郷とし、末次東西、鹿子、上飯盛を与賀上郷と称し、六庄屋を配し、六郷蔵一社倉を置いていたが、明治維新の際に、川副郷の一部であった袋村を編入し四十大区三小区と称した。また本庄村外三ケ村戸長区域としていたが、明治22年市制・町村制実施の際、厘外村の一部であった正里村を編入し、上飯盛の一部を西与賀村に割き、また、鬼丸、田端、大崎等の転在地を佐賀市に譲り、面積は約6.8k㎡となった。
藩政時代は藩の直轄で、庄屋、村役、咾、吟味人、散使(さじ)等をもって一つの村の行政を形作り、筆者をもって、名寄帳の整理をさせていた。
また人、馬の数により年貢を納めさせ、郷蔵を置き腐敗苗に備え、御囲苗(オカコイナエ)を播き、斃馬のためには、馬拝借(金員)を下賜し、雇人取締のためには小頭を置き、農家のため保護をした。
維新後は大区、小区となり、区長の下に副区長を置き、また小区ごとに戸長を置く制度となり、その後村長となる。
また納税は金納となり、戸長においてすべての収支を司どる。

出典:かたりべの里本荘西分P.1本荘の歴史P.1