灰塚の起源

灰塚の起源

■所在地佐賀市本庄町本庄
■年代中世
■登録ID707

永享3年(1431)将軍足利義教の時、防州の大内徳雄(盛見)が筑後に進出し、立花城(柳川)を攻める。城主はこれを幕府に訴えた。徳雄は追われ、肥前に逃れて来たのを少貳資嗣が佐賀城に迎え戦った。徳雄は飯盛城(上飯盛常照院付近)に籠る。少貳資嗣は龍造寺家氏の部下、鹿江遠江守と謀り、西の飯盛城を夜討ちした。その結果、大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て、筑前へ逃れた。その時西与賀高太郎の高太郎丸、小太郎丸の両名が戦って、功名をたてた(西与賀高太郎に両者の屋形跡あり)。この戦いで大内軍は唐菱錦旗を捨てて逃げたので、その旗を観音寺に納め、大内籏山と称えるようになった。
また激戦のあとの死骸、槍、鎧等は集め焼き灰は盛り塚を築き葬ったので、地名を灰塚と称するようになる。
「西肥古蹟詠曰」
十萬精兵待指麾 六州茅土入封時
英雄の末路何堪説 蕭寺空餘大内簱
あわれをば 塚にとどめて 野里なる
寺にも 旗の 名を残しけり

出典:かたりべの里本荘東分P.13本荘の歴史P.99