梅林庵楠公父子の像と義祭同盟の発起

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梅林庵楠公父子の像と義祭同盟の発起

■所在地佐賀市本庄町大字本庄71
■年代近世
■登録ID729

寛文2年(1662)、佐賀藩士だった深江信渓は、楠木正成・正行父子の忠孝を鑑として広く顕彰すべきと発起し、父子が桜井の駅での別れの時の鎧姿の像を京都の仏師に刻ませた。
翌3年、完成した父子像を北原・永明寺(大和町・廃寺)に安置し祭祀した。父子を祀ったのはわが国で初めてであった。
天明(1781〜88)の頃高傳寺に置かれ、文化13年(1816)、梅林庵に移された。これを知った「日本一君論」を主唱する国学者枝吉神陽が、嘉永3年(1850)、楠公父子の祭祀を同志に呼びかけ、尊王派の同盟である義祭同盟が結成された。呼応した同志38名が楠公が戦死した忌日の5月25日に梅林庵に集まり、深江信渓の子孫・俊助が祭主で初回(第1回)の楠公祭が行われた。これが佐賀藩勤皇運動の中心となった義祭同盟である。枝吉神陽はじめ、枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)、木原義四郎(隆忠)らが参加している。その後、毎年5月25日に行われ、江藤又藏(新平)、中野眞七郎(方藏)、大隈八太郎(重信)、久米丈太郎(邦武)、鍋島茂眞、鍋島直嵩らも加わっている。
安政(1854〜59)になり、梅林庵の父子像は、城下の龍造寺八幡宮境内に設けられた社殿に移され、楠社として、ここで楠公祭が行われるようになった。

出典:葉隠佐賀市史ワークショップ中野和彦氏寄稿

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