高傳寺副島種臣の墓

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高傳寺副島種臣の墓

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■所在地佐賀市本庄町大字本庄1112-1
■年代近代
■登録ID746

副島種臣は文政11年(1814)9月9日佐賀市赤松町にて生れる。枝吉南濠の二男で、神陽の弟である。幼名を二郎といっていた。
種臣が32歳の時副島利忠の養子となられ、副島姓を名乗られた。
種臣が後世に名をなしたのは、実に勤王家石井松堂の薫陶のしからしめたものである。種臣は蒼海・一々学人の号があり、学問該博、識見高邁、詩文に巧みで、明治天皇の侍講となられた。書は六朝を研究して妙を得、書聖中林梧竹翁と親交があり、梧竹翁が再三中国に渡り書道を研究したのは、偏に先生の書かれた書を見て発奮されたのである。「私は今度こそ、貴方に負けまいと支那(中国)に渡って研究して帰ってみると、先生の書は私より上手になって居られる。どうして支那にも行かれずに上手になられますか」と問われたのに対し種臣はただ笑っておられたそうである。
梧竹翁は書道においては種臣に一歩譲っておられた。しかし種臣はまた翁の書は実に見事だと賞讃して、明治天皇に梧竹翁の書を献上された程である。
種臣は維新の際国事に奔走され、明治元年初めて参与職制度事務局判事に任ぜられ、次いで参与職に補され、明治2年7月参議同3年5月外務省御用専務を経て、11月外務卿に任ぜられた。明治6年征韓の論が起った際議あわず辞職された。
明治17年伯爵を授けられ、明治25年松方内閣成立の時内大臣となられ、また枢密顧問官に任ぜられ、明治38年1月78歳で死去された。
墓地は東京青山及び高傳寺にある。

出典:かたりべの里本荘西分P.131本荘の歴史P.43

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