本庄むかしむかしの年中行事

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本庄むかしむかしの年中行事

■所在地佐賀市本庄町
■登録ID838

正月松の内には懸け薦を釣り、門松に似せる(これは使用後に巻き俵として使用した)。
2日には屋敷田に鍬入れと称し、譲葉(杠:交譲木…トウダイグサ科の常緑喬木。秋に旧葉は暗緑色となり新葉が生長して旧葉が落ち譲るのでこの名がある)を立てる。
6日の朝には寺子屋の子弟は、始筆に吉書と称し「嘉辰令月歓無極万歳、千秋楽末央長生殿裏春秋富不老門前日月遅」等の筆を試み歳徳神(その年の徳神でこの神のある方を明の方または恵方といい万事吉とする)へ供えた。
7日の朝は、数日前より建てた2間4面位の藁小屋を暁天に焼き、歳徳神へ供えた。吉書を青笹付の竿頭に結んで炎上させ子ども達の楽しみであった。この日は「叩き菜」と称し、7種の蔬菜を叩いて汁となし、また歳徳神へ供えた餅を7か所(ホンゲンギョウ)焼き、同夜は、七福神の装いで豆をまいた(今は節分で行っている)。
11日には、天照大神宮へ参詣し、大福帳を求め、十一日祝と称して、祝宴をなした。
14日の晩には、子ども等が集り「土龍打」といって小竹の先に藁を束ねたもの(焼鮒挿の如きもの)を持ち、各家を廻り「なーれなーれ梅の木、ならずの梅をばなれとぞ祝うて、千なれ、万なれ、朝なれ、人のチギッ時キャー堀の上ナーレ。おいがチギットキャ畑の岸ナーレ。十四日の土龍打ち」と唱えて餅をもらって歩いた。
20日には、二十日正月と称し、忌明のものや歳なみの悪い者は本日をもって更に越年の式を挙げる風習があった。
2月の初午の日には少女等糸柳の枝に大麦やカンナ草及び髪を少しばかり紙に包み、水引にて結び「この川や、この川や、広さ深さは知らねども、流るる先まで延べや黒髪、黒髪」と歌い、流れ川の橋頭より流した。
3月3日は桃節句として雛飾りをなし蓬の餅を供え、白桃の枝を挿して生け、少女の将来を祝ってやった。
4月8日には、各寺院にて華堂をこしらえ、下には盥(たらい)の中に釈迦の像を置き、甘茶を注ぎ、各家においてはその甘茶を受けて頂き、また蚊帳に注ぎ、家の周囲にまいて悪霊を防ぐ祈りをなした。
4月19日・20日は、高傳寺の釈迦堂祭で代官所より多くの役人が出張して、華美な風習を矯正する目的をもって、絹の着物はもちろん、日傘や絹物交りの羽織まで取上げて節倹法を実行させた。当月は川神祭と称えて藁にて円座及び食器を拵え、御供をあげ鯰(なまず)・鮒などを画いた幟を立て流していた。
なお当月は挿秧(水田に早苗を植えること)の始めに田の神祭りといって握り飯に、芦の葉及び蔦葛の葉を覆い農神に捧げた。
5月5日には紙幟(木綿織りは贅沢であると禁止されている)を立て、男子の成人を祝った。
当月の末から6月の初め頃、晩稲の挿秧を終え「早苗堀」といって手造の餅、饂飩(うどん)等で夏毛取り上げより晩苗植付までの慰労の宴を開いた。6月は各神社において、祇園会を子ども達は千燈籠といって些少の銭を貰い、菓子果物等を買い食う風習があった。
7月の盆祭りは別に変りはないが、新喪の家では7月中数間の竿頭に紅の燈籠を掲げた。
8月15日夜は芋明月と称し、男子13歳の者の運試しをなした。当夜の晴曇雨に一生の吉凶を占った。
9月15日夜は、豆明月と称し、女子15歳の者に晴曇雨により一生の運試をなし、また明月に対し薬袋を縫う恒例があった。
10月15日には千本松の直茂公御胞衣塚畔において鍋島家より、4間に10間の仮家をこしらえ村中の男女老若を集め、赤飯の馳走をなす恒例があったが、維新後に廃止となり、地元主催となり祭事を営み鍋島家を賓客に招いた。
11月は子ども等が集まり、産土神社へ〆飾りをなし、薪を焚き通夜をなし、〆飾の材料にて正月の「ホンゲンギョウ」を作った。また11月は与賀神社、本庄神社へ締元といって大名行列を真似て盛大な神事をなしていたが明治4年(1871)12月本庄神社は郷社になり、末次等は与賀神社より分離して、本庄神社となり、11月28日をもって祭日と定め、氏子が各区順番に浮立、角力、手踊等を奉納し盛んになった。
12月には御本丸三の丸その他の松飾用として大〆縄勝り藁等を本庄本村より納付した。

出典:かたりべの里本荘西分P.6本荘の歴史P.7本荘村沿革誌