百武志摩守と圓久尼

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百武志摩守と圓久尼

■所在地佐賀市本庄町
■登録ID882

九州五国二島(肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、壱岐、対馬)の太守龍造寺隆信公の重臣百武志摩守夫人は俗名を藤子(斐子)と呼び、後、仏門に入り剃髪して圓久尼と称した。
女子はかねて大刀無双の誉高く武道の達人であったばかりでなく、博く和漢の学に通じ、婦人としての修養研鑽に努め、その人格は当時衆人の敬慕する所であった。百武家に嫁して以来、志摩守出陣の場合は、その身もかいがいしく武装を整えて後に続き、槍の柄に兵糧、草鞋等を着けて、家人に持参させていた。戦国争乱の時代とは言え、婦人としての心掛誠に感心の外はない。
天正12年(1584)3月、龍造寺隆信公は大軍を挙げて島原に出陣されたので、当時筑後、蒲船津の城を預っていた志摩守も留守を夫人藤子に委せてこれに従って行った。
ところが不幸にも3月24日隆信公戦死の悲報が伝わったので、藤子の方は夫志摩守の戦死も疑いないものと思い、居城を出て郷里八田に帰り、直ちに百武家の菩提寺である与賀町の浄土寺に入り、惜し気もなく剃髪しその名も圓久尼と改めた。やがて夫志摩守戦死の悲報が伝わった。勿論かねて覚悟の事ではあったが今更のように悲しみ、念仏に日を過しながら専ら夫の冥福を祈ったのであった。
圓久尼は、その後鍋島直茂公の懇望によって止むなく再び郷を離れて蒲船津城に入り、島原陣に生き残った家人を集め、僅かの兵力をもってこれを守ることになった。女子の身として先には一城の留守居を務め、今また引続き守城の任に当るとは、その剛毅武勇の程敢て男子に劣る所が無かった証拠ともいうべく、隆信、直茂両太守の信頼の程もまた知るべきである。
隆信公戦死の後、筑前立花の城主戸次道雪、岩屋の城主高橋紹運はこの機に乗じ、大友氏の兵を加えて天正12年(1584)9月15日龍造寺に反旗を翻した。そして龍造寺の諸城を攻略するため、まず筑後の西牟田、酒見、榎津等の民家に火を放ち続いて蒲船津の城に攻め寄せたのである。圓久尼はかねて覚悟の事とてちっとも騒がず、自ら武装を整え大長刀を小脇にかいこみ、城戸口に出で必死となって防戦したので、寄せ手も大いに驚き容易に近づく事が出来なかった。そのうちに、榎津から馳せつけた中野神右衛門清明の援助を得て幸に危急を脱することが出来た。
かくて勝利を得た圓久尼は思い出深い蒲船津の城を出て八田の旧宅に帰った。その後「尼の身として城番は不似合である」と直茂公に申し上げたので、直茂公も深く考えられてその願いを聞き届けられた。
その後、郷里にあって靜かに念仏しつつ亡夫の冥福を祈り続けて、元和元年(1615)8月16日波瀾多き一生を終ったのであった。法名を圓久妙月大姉という。
市内多布施三丁目天祐寺に、安らかに眠る御墓の前にぬかづく時、戦雲の巷に咲いた一輪の大和撫子散って星霜ここに400年、日本婦徳の亀鑑としてりりしい女子の生涯が、髣髴として我等の心に甦り、言い知れぬ感に打たれるのである。

出典:かたりべの里本荘東分P.91本荘の歴史P.129