久米 邦武

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久米 邦武

■所在地佐賀市
■年代近代
■登録ID966

天保10年(1839)、佐賀市八幡小路に生まれる。幕末、江戸にて昌平黌に学んだ後、明治維新とともに新政府に仕えた。明治4年、岩倉具視の欧米視察に同行し帰国後、「米欧回覧実記」を著した。その後「国史眼」を編集し、古文書学を樹立し、日本古代史の学問的研究に先鞭をつけた功績は大きい。佐賀市八幡小路に息子・桂一郎とともに生誕碑がある。

出典:ふるさと勧興(P.40)

天保10年(1839)7月11日~昭和6年(1931)2月24日。歴史学者。
佐賀城下八幡小路に邦郷(くにさと)の三男として生まれる。幼名泰次郎。のち丈一郎、易堂と号した。文久2年(1862)藩主直大(なおひろ)が弘道館を訪れたとき、首席として直大の前で「論語」を講義した。同年、江戸の昌平黌に遊学し、古賀謹一郎に学んだ。元治元年(1864)5月、弘道館で教鞭をとり、同年9月、鍋島閑叟の近侍となった。維新後、藩政改革案を立案し、福島礼助とともに「藩治規約」をまとめた。明治4年(1871)11月、権少外史に任命され、遣欧米特命全権大使の岩倉具視使節団に随行。1年9ヶ月にわたる行程を「特命全権大使米欧回覧実記」(全5冊)として編集した。明治12年(1879)3月、「大日本編年史」など国史の編纂に尽力、明治20年(1887)佐賀を訪れ、地元に残る古文書を収集して「佐賀文書纂」をまとめた。明治22年(1889)東京帝国大学国史学科の教授となる。明治24年(1891)「史学会雑誌」に「神道は祭天の古俗」という論文を発表。翌年これが田口卯吉の主宰する雑誌「史海」に転載されると、神道団体から国体を傷つけるものとして非難され、同年、文部省は久米を免官した。東大教授時代の久米は「英雄は公衆の奴隷」「太平記は史学に益なし」「勧懲の旧習を洗ふて歴史を見よ」などと斬新な論文を発表、実証史学の立場を明らかにし、西洋の近代史学に学んで「古文書学」を創始。後、大隈重信の招きで、東京専門学校(現早稲田大学)に移る。著書に、「古文書学講義」「上宮太子実録」「南北朝時代史」「鍋島直正公伝」がある。また、談話に基づく「久米博士九十年回顧録」(2巻)など。昭和57年(1982)10月開館した久米美術館(東京都品川区)には、長男桂一郎の絵画とともに邦武の原稿、著書が所蔵されている。
                    <大園隆二郎>

出典:佐賀県大百科事典(P228)