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「大和町」「建造物」「地蔵・銅像・石塔」は20件登録されています。

  • 荒神

     「荒神(コウジン)さんは荒神(アラガミ)さんで家の回りに夜小便をすると回り荒神にとがめられる」とか「旅に出る時は荒神さんを拝んで行けばけがあやまちをしない」とか子どもの時からよく親にいわれ恐れていたものである。荒神は一般にかまど神としてくどの近くに神棚を設け、かまどの形を粘土で作り神棚に上げており、家ごとに祀られている場合が多いが、地荒神として屋敷内に祀っている場合もある。石神としての荒神は...

  • 大日如来と天照大神(平野の権現社)

     大日如来を「マカビルシャナ」といい、真言密教では光明に輝く絶対の仏の意としている。金剛界大日如来(智法身)と胎蔵界大日如来(理法身)の二身があって、共に宇宙万物を育てる仏であるとされている。大日如来は高く髪を結い天衣をまとい、宝冠首飾り等をつけた美しい姿である。日本人は古来水の神、風の神、火の神、山の神等のように自然を崇拝してきた。民間信仰では日輪を仏としたのが大日如来で、神としたのが天照大...

  • 河上神社三重塔ほか

     国分寺には七重塔(木造)が建てられていたが、河上神社にも三重塔(木造)が建てられていたことが河上神社文書で明らかであるが、現在その塔の心礎といわれるものが、社前向かって左側にあり手水鉢の形をしている。その形状は長径1.5m、短径1.35m、厚さ63cm(地中の分不明)で造出はなく、柱穴の中央の舎利孔は径9cm、深さ10.7cmである。一般には心礎の周囲に一片が5個の正方形に16個の礎石が配され、中央の心礎と合わせて17...

  • 庚申塔

     町内の庚申塔には自然石や自然石に「庚申」「庚申尊天」「猿田彦」「青面金剛尊天」等の文字だけのものが多く、中には青面金剛の像を彫り込んだ石神も見かける。庚申の日の晩に、人間の体内に住む三尸という虫が、人間の寝静まるのを待ち、体から抜け出して天に昇り、天帝にその人間の罪状を逐一報告する。天帝はその報告に基づいて様々の罰を与えるという。庚申の日が60日ごとに来るのでこの晩は庚申の祭をして飲食をしなが...

  • 遺髪塔(実相院)

     実相院の講堂前庭に相輪屋頂式石造宝塔が建てられている。宝塔建立は納経、供養、逆修(生前供養)の3つの目的があるが、墓標として用いられる場合もある。実相院の宝塔は供養が目的で建てられたもので、遺髪塔と称し基壇に納髪する装置がなされている。建立の年代は不明だが江戸時代と思われる。石垣で基壇を設け基礎、蓮花座、塔身、笠、相輪と全長4m余の大宝塔である。相輪は請花、宝輪、宝珠からなり、塔身には4面に梵字...

  • 無縫塔(卵塔)

     古い寺にはその歴代僧侶の墓に無縫塔又は卵塔という石塔がある。基礎の上に倒卵形の塔身を置いたのが普通であるが、この種の古いものでは実相院墓地や国分寺跡に江戸期歴代僧侶の無縫塔が建並び、松梅地区仲の華蔵庵跡には湛然和尚以下の無縫塔が並んでいる。無縫塔の豪華なものには塔身下に請花があり中間に角柱を置き更にその下基礎上に覆蓮を刻んだ石塔がある。町内では水上の万寿地墓地内にある天亨和尚の墓がそれである...

  • 如法塔(実相院)

     実相院の裏山に如法塔がある。ここは「経塚」と呼んでいる所である。実相院では平安のころより如法経会が始っている。法華経には写経の功徳を説いてあるため奈良時代から写経が盛んに行われ平安時代中期になると経巻を保存しようという経塚が流行した。実相院裏山にある経塚は如法経会ごとに僧侶達の写経した法華経とその年の過去帳が納められている。

  • 月待供養塔

     如意輪観音を主尊とした十九夜待、二十二夜待、二十三夜待二十六夜待が行われている。北原三社権現社には慶応元年(1865)の造建になる二十三夜待供養がある。井手天満宮には安政5年(1858)造建になる月天子の塔が建っている。月天子又は名月天子ともいい、月宮殿の中に住んでいて月の世界を治める神として信仰されたものである。いずれも月待供養で信者が集まって講を仕立て、男女それぞれ日をきめて集まり飲食談合し、時に...

  • 高城寺地蔵尊

     高城寺の本尊は釈迦如来、観世音、地蔵菩薩の三尊であるが、その中の地蔵菩薩像は地蔵木像中の傑作といわれている。胎内背面に「地蔵命」の墨書銘があり又座具板に  『本物は「うんけいさく(運慶作)」御つくろい(御繕)は「寛文六年ひのうまとし(丙午年)」さいしき(彩色)仕候 「京丈仏」仏師□□□□月□□」との墨書銘がある。※( )内は註釈  寛文3年(1663)には大木惣右衛門の肥前古蹟縁起があるが、それには当時の...

  • 餓死塔

    佐賀藩は温暖な気候と肥沃な田畑に恵まれていたので、度々の台風や洪水、干魃による凶作でも切り抜けてきたが、凶作のために餓死者を出すに至ったのは享保17年(1732)の大凶作による飢饉がただ1回であったらしい。わが佐保川島郷(旧川上村)も例外ではなかった。時の大庄屋中原只右衛門尉正純は郷内庶民の苦しみを哀れみ、米倉を開放して難民に粥を与えた。1粒の米はおろかあらゆる物を食べ尽くし、餓死寸前の難民達は当地区...

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