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[佐賀市][嘉瀬校区][自然][河川・水路]は6件登録されています。

  • 干拓堤防

    嘉瀬新町の干拓堤防は、後傾斜工法のオランダ式堤防である。堤防事業は、用水確保、洪水調節、陸地造成など多目的である。有明海では、大潮の時には水かさが5〜6mに達している。

  • 嘉瀬川水路の変遷

     奈良時代、国毎に作成された最古の地誌の一つ「肥前風土記」によれば佐嘉川の上流に荒ぶる神あり。通行人の半分を殺した。当時、土地の支配者佐賀県主(あがたぬし)「大荒田」が、まだ朝廷に服従してなかった「土蜘蛛」の「大山田女」と「狭山田女」の二人の女性に占わせた。そこで二人は、下田の土で馬と人を造り、荒ぶる神を祀ったら静まった。そこで二人の女性は崇められ感謝されて「賢女(さかしめ)」と呼ばれたという。サ...

  • 「嘉瀬川の古い流れ」

    嘉瀬川は、縄文中期(約5千年前)頃、脊振山地の麓に沿って支流をもちながら、東の方に流れ筑後川に注いでいた。水量豊かで舟楫の便があったらしい。 奈良時代(710~793)頃、市ノ江・巨勢江湖・佐賀江の線が、嘉瀬川の本流である。この佐賀江は、巨勢江湖をはじめ、中地江その他の細流を集め東西に流れ、東は筑後川(大堂川) に注ぎ、西は新川などの支流をつくる。 平安時代・鎌倉時代(794~1085、1192~1333)頃、嘉瀬川は、なお...

  • 「昔の嘉瀬川」

     県農林部技師 崎田善七の著  昔の嘉瀬川より 昭和30年1月発行 史実によれば、平安朝頃 (800年頃)までの佐賀平野は、有明の海だった。堤防もなく井堰もない全く原始的な性格そのまゝで、洪水毎に乱流していた。てっきり「水神さまの祟りである」と怖れおののいた。 鍋島村岸川部落の川べりに八竜神社を建立した。380年前、天正の始めに建てられた。戦国時代の末期に当り徳川がほぼ天下を平定した頃です。

  • 「変った嘉瀬川の堤防」

    江戸時代から昭和の末期まであった、嘉瀬川堤防の竹林は、濃い緑の帯をなしていた。 その竹林の中に、一本の小道があった。この小道を歩いて、ふる里を離れていたが、いま帰郷したと、心に、沁みたものだ。 秋も深まれば、竹林の帯の中に、はぜの木の一群があったが、真紅に染った色は、一段と色鮮かだった。ところどころにある椋の木は、黒い小粒の実を一杯つけて、子供たちを待っていた。口一杯ほほ張り、一粒ずつ実を空に吹...

  • 有明海の港

    13、4世紀の船舶「刳船」は6〜8人の櫓の漕ぎ手で、有明海に潅ぐ嘉瀬川を利用し、年貢や物資の集散地であったのが嘉瀬津であったと推察される。 嘉瀬津には「津の代官、平吉弥次郎」着任している。今の嘉瀬津公民館。中国との交流もあっていたのだろう「宋銭」を祖母から貰っている。 その頃の九州の3大津  博多津・・博多、坊津・・鹿児島、嘉瀬津・・有明海 13、4世紀頃の嘉瀬津の船着場を昨年やっと、ここらしい...

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