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[佐賀市][日新校区][人物][人物]は22件登録されています。

  • 青木熊吉

      元治元年(1864)〜昭和14年(1939)  佐賀郡金立村(現、金立町) に生まれる。  明治16年に設立されたガラス工場の精煉社は、幕末期佐賀藩主鍋島直正の命によって建設された精煉方(現、多布施3丁目)が改称されたものであり、正式には精煉合資会社といった。明治維新後、精煉社でのガラス事業は、鍋島家が管理し、明治21年(1879)に青木熊吉、岡部才太郎をガラス製造の技術習得のため、東京の工部省工作部へ派遣し、英人ゼー...

  • 石井龍右衛門

      文政8年(1825)〜明治15年(1882)  国学者として名をなした。名は鉄、通称龍右衛門・松堂と号した。北島武兵衛の次男に生まれ、のち石井家の養子となった。  弘道館及び夏秋富雄に学び、弘道館指南となったが、病気のために辞してのち佐賀駄賃小路(現在の伊勢町) に家塾純粋社を開いて子弟を教えた。日本外史・大日本史を講じて、愛国思想を鼓吹した。朱子新註を説いた夏秋富雄の学説をついで、彼の国典経史を基礎とした...

  • 石田一鼎

      寛永6年(1629)〜元禄6年(1693)  石田平左衛門実之の嫡男として、佐賀城下多布施(現在の多布施1丁目)に生まれた。幼名兵三郎、通称神左衛門のち安左衛門と改めた。 神儒仏三道に通じ、17歳にして藩主鍋島勝茂に近侍し、29歳の時2代藩主光茂のお側相談役としても仕えた。  寛文2年(1662)一鼎34歳のとき、光茂の怒りを買い、禄を召し上げられ小城藩にお預けの身となり、西松浦郡山代郷に幽閉された。七年後許されて佐...

  • 右近刑部

      慶長20年(1615)没  佐賀城総普請に際して、初代藩主鍋島勝茂が、右近刑部を都会支配役にして、町造りを命じている。右近刑部は蛎久天満宮(佐賀市鍋島町蛎久) の社人で、菅原道真の子孫といわれる。町づくり支配を命ぜられた右近は、中元寺新右衛門とともに、慶長町、高木町、元町、白山町、岸川町、伊勢屋町、六座町、八戸町などの町々を造った。城下町完成後は藩主の意向によって町人となり、伊勢屋町に旅人宿を営んでい...

  • 江藤新平

       天保5年(1834)〜明治7年(1874)  佐賀藩士江藤助右衛門の第1子として佐賀城下八戸町に生まれる。名は胤雄、号は南白。11歳で弘道館に入学、19歳で枝吉神陽に学び、義祭同盟に参加、22歳で開国論をとなえた。28歳の6月脱藩して京都へ上り、尊皇運動の中心となっていた公卿の姉小路公知と会う。8月佐賀に連れ戻され、永久閉門となる。慶応3年(1867)閉門を許され、京都で倒幕運動に専念する。明治元年(1868)官軍の軍監...

  • 大木喬任

      天保3年(1832)〜明治32年(1899)  佐賀藩士大木知喬の長子として佐賀城下赤松町に生まれる。通称幡六、のち民平と改めた。15歳で弘道館に入学、義祭同盟に参加する。32歳で学館指南役を命ぜられた。明治元年(1868) 4月、江藤新平と連名で江戸遷都を岩倉具視に建白した。参与となり12月東京府の知事に任命された。民部卿、文部卿、司法卿を歴任、3回にわたる文部大臣として学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に...

  • 古賀精里

      寛延3年(1750)〜文化14年(1817)  江戸後期の儒学者で、佐賀城下精小路に住む。名は撲字は淳風、通称は弥助。陽明学を学び、のち江戸幕府の官学として保護された朱子学に転じた。天明2年(1782)、8代藩主藩島治茂により城下の松原小路にたてられた藩校「弘道館」の教授となり、弘道館の学則を制定した。寛政3年(1791)幕府の昌平黌の教官に抜てきされた。高松の柴野栗山、伊予の尾藤二州とともに寛政の三博士と呼ばれて...

  • 佐賀の花

      大正6年(1917)〜昭和50年(1975)  染め物屋北村忠太夫の第4子として、佐賀市八戸町に生まれる。名は勝己。昭和5年(1930)3月日新小学校、佐賀高等小学校を卒業。16歳の時、横綱玉錦に見込まれて二所ノ関部屋に入門。当時身長170㎝、体重75㎏でさほど大きい方ではなかった。  鋭い立ち合い、一気の寄り、つりで頭角をあらわし昭和17年(1942)夏場所小結、昭和18年(1943)春場所関脇、昭和19年(1944)春場所13勝2敗で初優...

  • 島義勇

      文政5年(1822)〜明治7年(1874)  佐賀藩士島市郎右衛門の子として佐賀城下精小路(現在清和高校運動場)に生まれる。通称団右衛門、字は國華、樂齊と号した。島家は代々鍋島家に仕える禄高切米25石の家柄であった。8歳で藩校弘道館に入学。弘道館で勉強しながら、一方で従兄の枝吉神陽から皇漢学を学び、卒業後諸国を遊学したとき、水戸の藤田東湖からも教えを受けている。  嘉永3年(1850)義祭同盟が楠公父子像前で結成...

  • 杉谷雍助

     文政3年(1820)〜慶応2年(1866)  佐賀に生まれる。字は元譲、通称を雍助。(雍介と書いたものもある)佐賀藩士であり、蘭学者として有名である。弘化2年(1845)長崎に出で蘭学を修め、更に江戸に遊学、帰国後蘭学寮の頭となって後に火術局佐兼造砲局佐の任につく。  反射炉の建設及び大砲の鋳造の際蘭学を生かし、原書を翻訳し、鋳造に大きな役割を果たした。著書に「鉄熕略記」があり、反射炉の操業にちなむ血のにじむよう...

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