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[佐賀市][西与賀校区][物語・いわれ][地名・とおり名]は11件登録されています。

  • 相応搦(干拓地)

    面積16町7反9畝20歩を測る。周囲よりも一段低く、その恰好が如何にも入江の様相を今に残している。完成時期は明確でないが、南の再興搦が文政期頃の所産とされているのでそれより多少遡るものと考えられる。

  • 再興搦(干拓地)

    丸目の富農が主体となり、3期3搦に分割して築造したものである。最初に東部を築造して東新地といい、次に西部を築造して三丁搦といい、最後に中央部の江湖筋を築造して中の搦とした。総面積26町9反12歩を測る。

  • 新搦(干拓地)

    再興搦の南にあり、面積は15町3反8畝15歩を測る。明治初年に始められたもので、丸目の富農の外、嘉瀬新村、元相應、高太郎よりの参加もあったという。築堤には土居心に松杭も打たず、鍬のみで築造し、工事作業員は白石地方より雇い入れたとのことである。

  • 戊辰搦(干拓地)

    西与賀地区最大のもので新搦の外搦である。昭和3年戊辰の年に起工したのでその名がある。築造は近代的な工法によって行われ、昭和6年には潮止めが出来上り、昭和10年にはすべて完成した。出願者には東雅彦外65名で、面積は46町7反3畝24歩である。

  • 相應津

    本庄江に面しており、近世に入って発達した津で慶長絵図(1596〜1615)には村名の記入がなく土地の造成された様子もない。また、正保絵図(1644〜1648)にも村名がない。安政4年(1857)の川副、与賀、嘉瀬津諸目安によると、相應津は上町と下町に分れ、津なので村の庄屋に相当する別当の支配を受けていた。上町は船23艘で人別は448人であり、その内訳は男239人女209人で戸数87軒で、侍2、手明鑓3、足軽6、諸家来31、御船手4、寺1、山...

  • 厘外津

    慶長絵図(1596〜1615)には厘外として「石高二千六百十八石二斗二升二合」と記されている。厘外と書くのは江戸後期になってからと思われる。文化14年(1817)の郷村帳には厘外東分村(高柳、平松、野田、宮ノ丁)、厘外西分村(中村、中島、八竜)と記されている。佐賀本藩の蔵入地で村内に山本常朝の師湛然を開山とする曹洞宗の楊柳寺などがある。

  • 今津

    天正年間(1573〜1592)、大宰少弐が龍造寺康家に命じて龍泰寺小路に築城するにあたり、小津江岸の賑いが城にあまり近いため、料理屋、宿屋の比較的多かった東岸の家を今の地に移させ今宿と名づけた。それにならい、港も今津と名づけられた。

  • 元相應

    慶長、正保、元禄の絵図には村名の記載がなく、慶長年間(1596〜1615)頃の海岸線と考えられる。その後の沖積と干拓とによって陸地化し、耕地化が進んだのである。相應津の東にあって戦国末期までは小津江の河口の潮待港の役割をもっていたと思われ、のち本庄江に沿った相應津にその役割を奪われ、内陸が水田化した。文化14年(1817)の郷村帳に与賀下郷元相應村とある。明治初年に高太郎村となり、のちに西与賀村となった。

  • 高太郎

    足利時代大宰少弐資嗣が佐賀に存りし頃、中国の豪雄大内徳雄なる人物が飯盛城に在住した。飯盛城は本庄村上飯盛の常照院の地であった。 時に事情あって資嗣がこれを攻めた。その時、資嗣は本庄、与賀、川副方面の郷士をつれて夜襲をかけ飯盛城を陥落させた。大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て筑前に逃れた。その時軍は退却しつつ高太郎に来て潰滅した。その追撃戦に大いに功績をたてたのが小太郎丸、高太郎丸の両名であった...

  • 西与賀町の地理的環境

    佐賀市は佐賀平野のほぼ中央にあって、北に脊振・天山山系を臨み、南には有明海が広がっている。西与賀町は南北に細長い佐賀市の西南部に位置し、西はゆるやかに蛇行しながら南流する本庄江で嘉瀬町と接し、北東部を本庄町、南東部を東与賀町に接している。面積は5.35k?であり、産業は干拓事業で広大な土地があり、第1次産業の占める割合が大きい。特筆すべきものとして、有明海に近い土地柄のせいかノリの養殖や水産物加工産業...

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