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「神社仏閣」「循誘校区」「寺」は6件登録されています。

  • 清心院 

     永正年代(1510年前後)龍造寺豊前守胤家が居館とした。後年、西の館に移って、ここはその子の斎亮に譲った。斎亮は、深く仏を信じ、豊前の国彦山権現に参籠修行し、遂に僧となり、清心院と称することになった。やがて、居館を寺としたので法号をそのまま院号とした。 慶長年間、佐賀城構築のときから、この寺が城の東北隅にあるので、鬼門鎮護の道場とし、西北隅の天祐寺とともに、佐賀城の出城の役目をしていた。現在で...

  • 願正寺

     関ケ原の戦いに鍋島勝茂は西軍の豊臣方に加わり、伏見城を攻め下し伊勢の阿濃津城を攻めている間に、東軍の徳川方が勝利し西軍は敗北した。このため鍋島勝茂はたちまち進退に窮してしまった。このとき、小城出身の金持院元佶長老と、西本願寺の准如上人が、中にたち斡旋につとめたので、鍋島家も危機を脱することができた。これによって鍋島家では元佶長老のため小城に三岳寺を、西本願寺のためには、佐賀に願正寺を建立して...

  • 殿さま御成りの間(願正寺書院)

    現呉服元町の願正寺には、藩主の御成間と伝えられる書院が残されている。本堂の東側、庫裏との間に南面して建つ。屋根は、切妻造桟瓦葺、梁間は2間半で、南側に1間幅の下屋庇を降ろし、側まわり柱上には舟肘木を載せる。間取りは、西側に十畳の座敷、その東側に二十畳の次の間を並べ、南側にそれぞれ1間幅の入側線を付け、境は竹の節欄間を載せた杉戸で仕切られる。座敷は1間幅の付書院に、天袋、崩型の違棚を備え、床框は漆塗...

  • 願正寺本堂・初の県議会会填

    願正寺は慶長5年(1600)の創建であるが、現在の本堂は元禄15年(1702)の建立で、3代佐賀藩主・鍋島綱茂が大檀越となり、親類同格の多久家・多久茂文が廰主となって、当寺第6世慶海を願主として竣工した。 佐賀藩内の真宗の中心寺院として建てられた、13問四面の、九州でも有数の大きい木造建築である。歴史的に見てもほかに類をみない年輪と機能の集積を重ねた貴重な建物である。 天井裏の骨格はいろいろな種類の木材が組み合わさ...

  • 願正寺本堂欄間彫刻「二十四孝」

    本堂内陣の欄間は全面に、寺院には珍しいたくさんの人物や動物が彫刻されている。これは中国の親孝行をした子供たちの24編の物語である、二十四孝の彫刻である。 元禄15年の本堂建立の時に作られている。物語には、寒中、雪の中に、病気の母親のために筍を掘りに行った孟宗(もうそう)の話や、冬に生魚を欲しがった母のために、氷の張った水面を裸の体温で氷をとかして魚をとった王祥(おうしょう)の話などがちりばめてある。...

  • 旧町人町に集まる寺院

     循誘校区にかぎったことではないが、校区内のゼンリン地図を見ると、藩政時代の町人町と呼ばれた各町に寺院が集中していることが分かる。東は下今宿町の証明寺から西は願正寺まで22ヶ寺を数える。宗派のちがい、規模の大小はあるが、10ヶ町足らずのこの町にこれだけ存在するのも珍しい。寺院名だけ残し、すでに廃寺となったものも数ヶ寺ある。  これら寺院の中で創建年代の判明しているものは、ほとんどが慶長13年(1608)頃の...

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