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「建造物」「赤松校区」「碑」は9件登録されています。

  • 大木喬任誕生地

    【大木喬任】天保2〜明治33年(1831〜1899) 幼名幡六、民平。 父は彼の少年時代に若死、母の手ひとつで育つ。15歳の時佐賀藩校弘道館に寄宿、秀才、あだ名知恵者。必要以上の人に交わることを嫌う風があり孤立独行して思索することが多かった。弘道館時代、歴史学を得意とした。枝吉神陽、副島種臣らの影響もあって大隈重信らと勤皇運動に参加。鍋島直正に版籍奉還を強く説いた。江藤新平とともに連署して、岩倉具視に江戸を東...

  • 佐賀の馬鉄

    愛右衛門橋のすぐ南側が「馬鉄道の停車跡」になっている。現在、吉原病院の敷地内に「記念碑」が建てられ、その記念碑には次のようなことが記されている。馬鉄(馬車鉄道)はレールの上の客車を馬が引く輸送方法である。佐賀の馬鉄は明治37年(1904)2月に佐賀馬車鉄道株式会社が発足し、本社および車庫を水ヶ江のこの地に設け、明治橋(現在の馬責馬場)から諸富まで、幅2尺6寸(約79cm)の軌道が敷設されたのが始まりである。...

  • 佐賀の役招魂碑

    明治7年佐賀戦争で戦死や処刑された江藤新平、島義勇ら216柱を弔うため明治18年に建てられたものである。明治6年司法卿当時、征韓論を唱えて下野した参議の江藤新平は佐賀に帰り、征韓党を組織した。また秋田県令島義勇も職を辞して佐賀に帰り、憂国党を組織した。ともに征韓論を強く支持し、勅許を得ようと動きまわった。一方政府は佐賀の不平士族を鎮圧するため岩村通俊を佐賀県令に任命。岩村は熊本鎮台の兵を引きつれて入城...

  • 佐賀師範学校跡記念碑

    【記念碑】 育英の道に志し 青春の夢を抱きて 集い来る朋有り 佐賀県師範学校 佐賀県女子師範学校 佐賀青年師範学校 佐賀師範学校 佐賀大学教育学部 同窓会創設八十周年を 記念して思い出深き 佐賀師範跡をここに建つ 昭和四十二年十一月 有朋会

  • 殉国十三烈士の碑

    明治7年の佐賀戦争は、われわれ先人が近代日本建設の途上征韓論に端を発し、国を愛する真心と民権尊重のためのやむにやまれぬ戦いであって佐賀軍の敗北に終わった。戦後の処分は有無をいわせぬ即断裁判によって過酷を極めた。維新政府の功臣だった江藤新平、島義勇の両首領は、さらし首の極刑に処せられたのを始め、征韓、憂国両党の幹部は悉く斬首され佐賀城内の露と消えた。この中にはまだ26歳の香月経五郎、27歳の山中一郎ら...

  • 蒼海伯副島種臣誕生地

    幼名次郎。体弱く引込思案。父佐賀藩士枝吉種彰(南濠)。藩校弘道館教授。国学者(経書、詩文)弘道館宝蔵院槍の指南役の武人。兄枝吉経称(通称、李之助。号、神陽)は水戸の藤田東湖と並び称される。種臣は次男、号、蒼海・一々学人。18歳の時、副島利忠の養子となり改姓。生家は現在取り払われ、その地には佐賀県福祉施設が建っている。敷地内に「蒼海伯副島種臣誕生地」と刻まれた巨碑が建てられている。 幼少の頃、恵まれ...

  • 副田先生顕彰之碑(筑後川渡船転覆)

     故副田訓導遭難殉職の状況   昭和18年10月9日赤松国民学校第6学年男女233名(男125、女108)は、松(男)組を副田美代次訓導、竹(男)組古賀俊夫訓導、梅(男女)組古川幸男訓導、桜(女)組横尾たつ訓導、桃(女)組古瀬マサ訓導の5名にて引率し、福岡縣柳河町に修学旅行の帰途、午後2時頃若津より渡河、第1回に松組(男)49名、竹組(男)17名、他に乗客7、8名と共に乗船出発す。石塚渡場を距る20m深所2.5mの地点に差しかかるや、満...

  • 開拓紀念碑

     (碑文要点) ○ 旧主家(坊所鍋島家)の困窮を憂いて旧家臣や有志が募金計画(事務長に南里忠次、各地の代表を委員とする)し、旧藩公より金員の拝借をして、若干の町歩の田地を購入する願書を作成した。 ○ 佐賀の家扶、中野致明にもとおして、代表が上京、東京鍋島家の家令・深川亮蔵に提出したが却下された ○ 特例として、蓮堀を拝借して堀を埋め開拓埋築の恩命があった ○ 代表が帰郷後、早速、開拓埋築工事に着手して、3年...

  • 楠の木おばさんの碑と大楠群

    福田よしが54歳であった昭和25年(1950)に、旧佐賀城一帯の楠20数本が業者に売り払われ伐採されようとした時に楠の木の前にはだかり、「こいば切っないば、私を先に切らんかんた」と叫び、伐採阻止の行動を起こした。そして「楠保存会」を発足させ、佐賀県知事鍋島直紹氏には楠の木保存の重要性を訴え、県知事後援のもとに楠の木の保存のために奔走された。 佐賀城跡の楠群は、昭和28年(1953)11月3日、佐賀県天然...

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