検索結果

「建造物」「循誘校区」「橋・井樋等」は45件登録されています。

  • 思案橋

     当時、材木町は武家屋敷諸用達を務める商家町で、昔の唄に『思案橋の名物は、蔦屋の一粒金、釜屋のビンツケ、野中烏犀圓現金掛け値なし』とか歌われていたようである。蔦屋では一粒金の他にも文房具.紙.うるし.金箔などを売り、釜屋(西村油屋)ではビンツケ(日本髪を結うときに使うもの)の他ろうそく.元結い油を売り、松永呉服店や野中烏犀圓等町民の生活物資を売る店で賑わっていた。当時のことばに『こげこげ舟端近い...

  • 晒橋

     元呉服町と蓮池町の境で『錦通り』とも一時呼んでいたところで、光明寺の前にある橋がいわゆる『晒橋』である。この橋は、大財町副島病院南の大財橋より少し西より、願正寺の東を南に流れて、愛宕神社東を通り、晒橋から裏十間川に入る『呉服町水路』に架かる橋で、橋の欄干には往時を偲ぶガス灯が設置され復元されたのである。現在の橋になる(昭和の初期)前は、松原神社の石橋を小さくしたような形の石の太鼓橋であった。...

  • 蓮池藩主が架けた今宿の『了関橋』

     蓮池支藩2代藩主鍋島直之公は神得流の兵学に長じていられたので、佐賀4代藩主鍋島吉茂公に『兵学』を教えていた頃、佐賀城に通っておられたが、朝日町の西側で水ケ江との境にある裏十間川には橋がなかったので、遠回りをしていた。鍋島直之公は、このことで大変不便を感じて、この川に橋を架ければ、難儀をしている人達が便利になると思案し、橋を架けることにした。架橋により『蓮池往還』は大変繁栄した。鍋島直之公は、初...

  • 呉服橋 

    勧興小学校南から循誘校区に入る最初の橋で、すぐ近くには『大財聖堂』に因んだ聖堂橋がある。この橋は戦後呉服町角のロイヤルレストランから交通局東側を通る道路が戦後建設されたときに架けられた。  佐嘉藩主鍋島光茂は、元禄4年(1691年)城内に『鬼丸聖堂』を、武富廉斎が元禄7年(1694年)大財町六反田に敷地約1.400坪に『大財聖堂』を建てた。元禄時代から幕末までの間約170年余り学問を広めた。現在は、聖堂跡に、石...

  • 大財橋

     大財本通の副島病院や、元山崎石油店の南に架かる橋である。この十間堀川を境にして、南は旧佐賀市、北はかつての神野村とに分かれていた。  大正11年に佐賀市と神野村が合併したものである。

  • 清心橋 

    十間堀川は、循誘小学校の北を経て清心院の南をとおり二次井樋に至るが、清心橋は、川のすぐ北側にある清心院に因んで橋の名前とした。なお、清心院には佐賀市文化財指定の『不動明王』の木彫像がある。

  • 欄干橋

     松原神社の東側に『欄干茶屋』があり、藩主の休息所となっていた。また、幕府の使節などと面接する際の迎賓館としていた。光明寺の北に『本陣』があり茶屋との連絡も便利であった。この欄干茶屋に因んだ橋である。橋の北に佐賀銀行呉服町支店があった。かつては佐賀中央銀行本店で、県内2大銀行の佐賀興業銀行と昭和30年7月両銀行が合併して、佐賀銀行が創立された。

  • 明治橋

     馬鉄の開通式が明治37年2月28日、この明治橋の始発駅で盛大に式典が行われ、大隈重信候も出席したといわれている。 また、現在の福島薬局のところには西肥銀行があった。昭和3年佐賀百六銀行と合併した。

  • 成就院橋

     現在の八坂神社南裏十間川に架かる橋である。承応3年(1654)の絵図には橋が記載されている。昔は橋の西北に成就院と、盲僧成就院の屋敷があって、一かどの修行場だったが明治維新のとき衰滅した。

  • 常喜橋

    循誘小学校の校門から南に突き当たりにある橋で、明治22年の『市制施行当時之佐賀市街図』にはすでに記載がある。

前の10件1 | 2345....[最後]
総合検索
サイト内検索

ご利用案内
comodo ssl