検索結果

「遺跡・史跡・跡地」「久保泉校区」「跡地」は7件登録されています。

  • 城山中世山城址

     川久保の山中、勝宿神社の東方で標高115メートルの尾根に、地元ではイモのガンギー(芋の雁木)と呼ばれている土塁を持つ山城址がある。現在その全体が雑木林に埋もれており、外観は普通の山林と大差ないが、一歩その中に踏込んで見ると、南北に細長い尾根に幅2メートル、深さ1.5メートル、長さ35メートル程度の溝が、幅約2メートルの土塁をはさんで東西に走っている。また、尾根の頂には径10メートル程度の平坦地があり、こ...

  • 八ツ溝古戦場

     神代勝利の子、長良は、永禄8年(1565)3月に父を亡くし、4月には子供2人の急逝にあい、悲嘆にくれていた。  たまたま、千布友貞の土生島青土の砦にいた4月の23日に、龍造寺隆信の長臣納富信景がやって来て、悔み述べると共に縁組の復活の話を持ち出し、隆信には別心はない旨の誓書を届けたいと申し出て帰った。  ところが、その日の夜には納富の率いる大軍が、手薄な千布砦を包囲し攻め込んで来た。長良は不意をつかれ、家...

  • 川久保焼 窯跡

     川久保の両県道交差点を東へ1粁、左手の小高い山を皿山という。西が千葉胤正の屋形山、東が古墳のある大塚山で、中央の皿山の北斜面の密柑畑の中に『川久保焼窯跡』の標柱が見える。  傍らに3m角の窯壁が見え、下にも二段位ある登り窯である。窯の底部は作物があって見られないが、付近から半磁器の皿や碗それに窯の中で使うトチン、変形不合格品の破片が転がっている。  灰色地や褐色地に上薬=釉がかかったもの・かからな...

  • 祝部窯跡

     小清兵衛西端  関行丸古墳の南に神籠石の説明板がある。これから東へ250米、突き当たった処が小清兵衛山で、南の方3米のところに窯跡があった。これが『祝部窯跡』である。道路拡幅で削り取られた。単窯で、焼成度は600度位、短時間焼いたので赤褐色のままで、もろい。 埴輪・杯・皿・坩などが焼かれたらしく、すぐ北の溝の中からその破片が見付けられた。主に祭祀用に使われているが、町内から祭祀遺構が発見されていない。...

  • 土師器土器窯跡

     古墳時代前中期から奈良時代まで使われていた土器で、7〜800度の焼成だから幾分硬く黒灰色又は黄褐色。文様はなく素焼。皿・碗・高杯・壷などが作られた。西原古墳や金立西隈古墳から一点ずつ出土しているが、古墳後期(6世紀から7世紀前半)の住居跡からは多数出土しているので、日常生活に使われたということだ。  であれば、町内か隣町に窯がなければならない。未だ見付からないので、探索中である。白石原までも下っただ...

  • 須恵器土器窯跡

    神籠池北岸・不動滝下・后浦  神籠池北、ひの口の東5m程のところに、黒ずんだ箇所が堤防からも見える。登り窯なので縦に細長い。1千度を越える焼成だから製品は硬い。  不動滝下には、癒着したもの・歪んだものが散乱するが、昭和28年、村の青年団の協力でハイキングコースの整備をしたその時、上分だったか西原だったか青年が、壷形土器と皿の完成品を発見した。この壷は火葬骨の蔵骨器とみられ、祐徳博物館に保管されている...

  • お茶屋跡

     川久保には、小学校北に広い地域の『屋形』がある。東の屋形は隈本山の麓古川氏方前をいう。ここは大阪在の神代良夫氏系の屋敷跡で、戦災前の系図で確認した。西の屋形は学校北のことだろうか。  勝宿社前に館があったと言う人もあるが、確証がない。  西原東の「お茶屋」には、城内の神代屋敷(今の県庁舎一帯)からたびたび直系が訪れ、或は明治前後は居館として使用されていた。『川久保別邸内に享保年間(1716〜1736)...

総合検索
サイト内検索

ご利用案内
comodo ssl