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「人物」「巨勢校区」「人物」は7件登録されています。

  • 真崎 照郷(てるさと)藍綬褒章に輝く発明王

    製麺機の発明で知られる真崎照郷(てるさと)は、天才的発明家で立志伝中の人であるが、その血のにじむような努力と苦労は世にあまり知られていない。嘉永5年(1852)12月12日、巨勢町高尾に生まれた。家は代々酒造業で、父は手腕家で世の信望も厚かったが安政3年35歳で亡くなった。この時、彼は6歳。父は「世を益し名を挙げよ」と遺訓したという。父の死後、賢婦人で家業の切り盛りを一人で行なう母親の手で養育されたが、母...

  • 真崎 仁六日本鉛筆工業の創始者

    鉛筆工業の創始者・真崎仁六は、嘉永元年1月13日(1848)巨勢村高尾に生まれた。18歳の時、維新の風雲に遭い、長崎留学で英語を学んだ後、東京に出て郷党の先輩大隈重信が後援する日本最初の貿易商である日本起立商工会社に勤務し、金属工場の技師長として明治9年のフィラデルフィア博覧会に、翌10年パリ万国博覧会に製品出品のため渡欧した。 この博覧会場で美しく陳列された種々の鉛筆を眼にした真崎は、その実用性に驚くと共...

  • 秋山 虎六海軍少将、戦没者鎮魂碑文揮毫

    秋山虎六海軍少将は巨勢町東分上の出身で、父勘助と母コマの末子として生まれた。幼年の頃から両親の厳しいしつけのもとに教育された。勉強好きで、特に読書に余念がなく、多人数で騒がしい自分の家を抜け出して近所の空家で学習に励む熱心さであったという。 佐賀中学時代は常に成績優秀であり、近所の子ども達を集めて学習指導に当る努力家であった。佐賀中学より海軍兵学校に進み、心身共にたくましい青年に成長し、特に第1...

  • 真崎 誠乃木大将とともに学習院で皇太子教育

    真崎誠は明治7年8月18日(1874)巨勢町下新村で、父真崎利平と母ツネの長男として生まれた。幼年の頃から秀でた知恵の持ち主で、大人を圧倒することも度々であったという。勉強好きで、佐賀中学校より第五高等学校に進み、さらに東京帝国大学の政治科と国史科を専修したが、常に成績優秀であり、特に大学時代には旧佐賀藩主鍋島家の奨学資金を授かった。明治32年には東京帝国大学大学院研究科を修了して、内閣総理大臣秘書官室...

  • 水町 義夫詩人・第4代西南学院長

    水町義夫は明治18年(1885)2月16日巨勢村修理田に生まれた。明治45年に東京帝国大学文科を卒業して佐賀の成美高等女学校の教師となり、その後も、福岡の東筑中学校・中学西南学院・西南学院高等部で教鞭を執った。 学生時代、佐賀において、日本基督教会宣教師のピタズ氏より洗礼を受け、さらに北九州市若松で伝導していた尾崎源六牧師の指導のもとに、彼は熱心な基督教徒となり、その布教にも寄与した。 昭和2年9月より1年...

  • 小森 ナカ日本婦人の鑑

    嘉永元年(1848)3月11日、小森ナカは大字牛島5番地に生まれた。父は喜助、母はセツという。男子が誕生しなかったので、藤津郡吉田村の農業・宮崎慶次郎の二男清七をナカの夫として養子に迎えた。一家は小作農で生活は貧しかった。夫婦の間には1男4女ができ、和気に満ちて家運もよくなると思われたが、ナカが29歳のとき、不幸が襲いかかってきた。夫の清七が明治10年6月に病死、続いて父喜助も翌11年に、持病の喘息で長く病...

  • 山崎 クリ孝女・母娘とも薄資善行賞受賞

    クリは高尾宿の人で、温順な性格の持ち主であった。父は大正12年に亡くなり、母トラが日本電気鉄工株式会社の女工となって、家族6人を養うこととなった。一家の柱となり老父に仕え、子女の養育に力を注いだ。家は資産なく他からの援助もなく、貧困だった。そこで薄資善行者として金20円の後援資金が与えられた。しかし、大正14年4月、重病にかかり無料診療券により医療を受けることになった。このとき、本人クリは女工となり...

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