検索結果

「物語・いわれ」「循誘校区」「物語・四方山話」は6件登録されています。

  • 佐賀市制成立後の佐賀市役所庁舎

     明治21年(1888)4月17日国では市制.町村制の法律を作りこれを公布し、翌年の明治22年4月1日から実施されることになった。 これまで佐賀市の各町は、中の小路にあった佐賀郡役所の管轄下にあった。そこで町にするか、市にするかで幾多の激しい論争が展開されたが結局、明治23年3月18日官報で市制施行が決定した。佐賀市史第3巻によれば、佐賀県では明治22年3月27日の告示で、佐賀市役所を松原町に設置することにし、一時は...

  • 『野中烏犀圓』第8代、パリー万国博覧会に出席す

    慶應3年3月(1867)パリーで開催された万国博覧会に、徳川将軍家代表徳川昭徳の他薩摩藩および佐賀藩より参加した。佐賀藩の事務管長は、精煉方の主任・佐野常民であったが、商取引に自信がなかった常民は、親交のあった佐賀市材木町の豪商、野中元右衛門を販売担当の使節に加えた。元右衛門は、腹心の貿易商、深川長右衛門にも参加を求め、佐野は、精煉方の遠山文一郎を随行させた。通訳には、幕府の遣米使節の経験を持つ藩...

  • 岩倉具視卿子息たちの佐賀留学逗留

    明治政府の中心的人物であった岩倉具視卿は、当時、頭角を現していた副島種臣、大隈重信、大木喬任、江藤新平らを育てた佐賀藩の教育に強い関心を示し、自分の子息らを藩校の弘道館へ留学させたいと、藩主直正に頼んだ。 当時、弘道館はあらあらしい気風がみなぎっており、驚いた直正公は「貴公子を迎えるには恥ずかしい限り」と固く辞退した。 しかし,結局、子息二人は佐賀に下り、願正寺に投宿しました。そして1カ月遅れて...

  • 長崎奉行宿泊所、「御茶屋」(願正寺)から「本陣」(呉服町野口恵助宅)へ

    徳川幕府は享保2年(1717)、長崎に奉行所を作り、江戸から毎年一人、長崎奉行を派遣し外国船の貿易を監督させた。長崎奉行が佐賀を通過する折、佐賀藩大名は領内の支藩大名もふくめ、宿泊所である「お茶屋」に出向いて、あいさつするのがならわしであった。佐賀ではその宿泊所に願正寺が充てられていた。藩主の休憩所が臨時に充てられていたようで、現在の書院が使用されていたと思われる。また、そのほかの階級の宿泊すると...

  • 検番と芸者くらべ

     明治初期、佐賀市内の貸座敷密集地は上芦町と下今宿であった。明治16年(1883)佐賀県が再置されたが、時の県令(知事)鎌田景弼は「県庁の近くに遊郭があるのはけしからん。風紀が乱れ・・・」と言って廃止してしまった。しかしすぐ復活運動が始まり5年後には復活して以前を上回る繁栄ぶりであった。  佐賀市に初めて芸者検番が店開きしたのは明治30年(1897)、この年佐賀自由(佐賀新聞社)新聞に「佐賀市に芸妓検番の無きは...

  • 進駐軍宿舎

     昭和20年秋、大戦の敗戦により佐賀市にもアメリカ占領軍が進駐してきた。市内の主な公共施設にはアメリカ兵の衛兵が立ち、MPがパトロールしていた。新道の内庫所も接収され、何らかの施設となったのか、朝夕の星条旗の上げ下ろしには路上のアメリカ兵の直立不動の姿も見られた。  材木町の資産家川原氏宅の洋風の別棟も司令官宿舎として接収された。当時庶民の生活は衣食住にも事欠き、水道は水圧が弱く、共同水道でも地面...

総合検索
サイト内検索

ご利用案内
comodo ssl