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「物語・いわれ」「蓮池校区」「物語・四方山話」は11件登録されています。

  • 花見

    蓮池公園の桜は見事であった。桜の馬場は、まさに花のトンネルで、オートバイサーカス、見世物小屋、射的、土産物屋が、馬場の両側にずらりと並んだ。園内には茶屋が出来、三味線の音や、人々のざわめきが夜遅くまで続いた。当時は夜になると蒲田津方面までも、その音が聞えたという。江下伍長銅像の前に、1.000燭、男山に500燭の特設電燈が明るくかがやき、踊り舞台では仁輪加や、浪花節(さいもん)が演じられ、老いも若きも...

  • 蓮池と平氏1

    下って平安朝の末期、平氏最盛期の頃、土肥左衛門尉宗綱という人が蓮池の押領使として任命されている。土肥はもと山辺氏で武蔵にいたが、のち相模国土肥に移り地名をもって姓とした。平重盛に仕えその家人となっている。 宗綱が蓮池に居た期間は判明しないが、その子家綱は四国土佐国高岡に押領使として派遣され、平治の乱後平氏の命を受けて土佐冠者源希義(義朝四男)を殺し、功に因って土佐国を賜わり蓮池城を築き定住した。...

  • 小田氏の統治2

    今を距る約580年前、小田直光がこの地に来り、肥前国佐嘉、神埼、筑後国三潴の三郡に亘り6.000町歩を領し、城廓を構え勢力を張った。この時の城名を小曲城(蓮池城ともいう)と称し、城域は今の諸富町加与丁、小曲地区より蓮池公園所在地付近にまたがり、本丸のほか3か所の出城があった。しかも城の外濠は筑後川に連なり干満の差甚しき急流の江湖であったため平城としてはなかなかの堅城であった。かつて中国の太守大内義隆が...

  • 小田氏の統治

    小田一族の墓碑は今は巨勢町東巨勢龍津寺にあり弔う人も稀のようである。 さらに小田氏にかかる悲話は鎮光の妻室阿安(おやす)である。阿安は龍造寺家の嫡流たる胤栄の女であったが、父が死んで母が隆信に再嫁したため阿安も隨って隆信の女となった。隆信の政略的犠牲となって鎮光に嫁せられたのである。鎮光の惨死に悲しんで自殺を図ったが果さず、さらにまた唐津城主波多三河守親に再縁を強いられた。しかるに波多氏は征韓役...

  • 龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 1

    永禄元年(1558)11月中旬頃、龍造寺隆信は江上武種(神埼、勢福寺城主)が少弐各尚を援けて佐賀城を攻める計画があるとし、先手を打って江上武種を攻めた。この時、先陣を命ぜられたのは蓮池の小田政光、直鳥、崎村、蒲田津の三犬塚氏で、隆信は本陣を姉川城に置いた。 小田政光は龍造寺に降った証拠をみせるのはこの時とばかり、現神埼町莞牟田縄手で江上の軍と会戦した。この時味方が苦戦に落ち入ったため政光は再三にわたり姉...

  • 龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 2

    慶長16年、鍋島一族は新築なった佐賀城へ移り、蓮池城は城代に管理させているが、『佐賀年譜』によれば「石井党の頭々へ城代、城番を仰せ付けられたり云々」とあり、その役割は次のようになっている。 御本丸城代 石井孫右衛門 駕輿丁出城番 石井五郎衛門 小曲出城番 石井壱岐守 蒲田江出城番 石井又左衛門 この石井一党による蓮池城の管理は元和元年(1615)大坂夏の陣によって豊臣家が滅び、徳川政権が確立するとともに出さ...

  • 蓮池藩の成立

    寛永14年(1637)10月中旬、島原、天草のキリスト教徒が蜂起し、島原城を攻めた。このことは11月9日になって江戸に急報され、九州の各大名は急遽領国に下ったが、鍋島家では勝茂の子元茂と直澄が14、15日相次いで江戸を起って下国した。12月5日、元茂、直澄は佐賀に着き、元茂は搦手、直澄は大手の指揮をとることになり、佐賀勢の総指揮官には直澄がなった。佐賀勢は立花、有馬、松倉の諸勢と共に上使板倉重昌の指揮下に入り、1...

  • 戊辰戦争と蓮池藩

    明治元年5月3日、王政復古後間もない新政府に対して奥羽列藩同盟が結成され、さらに北越諸藩が加わって反政府軍が強化されつつあった。これに対し新政府は5月9日、東北諸藩親征の勅書をいただいて各藩に出兵を命じた。このため蓮池藩もこの年10月5日奥羽に向けて出兵した。即ち、石井靱負を隊長として士卒365名、軍夫180名、総員545名をもって編成された蓮池隊は伊万里郷楠久から傭船した英国船に乗船し、日本海を北上、途...

  • 佐賀戦争における蓮池隊 1

    明治7年1月、参議兼司法卿江藤新平は征韓論主張に敗れて薩摩の西郷隆盛等と共に職を辞し帰郷した。旧士族江藤新平を迎えた佐賀においては、江藤を支持する朝倉弾蔵、中島鼎蔵その他が同志を募り征韓党と号し、政府に建白書を提出すると同時に、征韓党趣意書を配布して全国の同士によびかけた。かくするうちに日を追ってこの論盛んとなり、その党に集まるもの2.500名に上り、遂に県金庫を掠奪し、県官の命令を聴かず、県官吏が...

  • 佐賀戦争における蓮池隊 2

    このような情況の中で蓮池士族は旧藩校成章館に集合して賛否を問い、激論の後には遂に刃傷沙汰にまで至らんとした。そこで衆議をもって陣内利武を佐賀軍本営のある川上実相院に派遣して両党主に面接し、蓮池士族の実情を伝え、かつ両党主の意向を求めさせた。これに対し両党主は、蓮池の軍事上の重要性を説いて加担を強請して止まず、「佐賀に加担しない場合は自衛上蓮池の人家をことごとく焼却し、もって官軍が占拠しても戦略...

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