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「物語・いわれ」「巨勢校区」「地名・とおり名」は6件登録されています。

  • 長崎街道跡

    江戸時代の地図でみると当時の橋は今の構口橋のやや南に架かり街道は川に沿って南に下り構口公民館の横を通り丸中木材市場の南を回り九州恵商会の南を経て五叉路に出て牛島宿の旧道につないでいた。 今は構口公民館で消えている。

  • 東西の「蔵福坊」

    田原伊勢守尚明は大友宗麟の家臣であったが、今山の戦いの際、宗麟に諫言したが用いられず怒りにふれ浪人となった。そこで、龍造寺に降り、佐賀東西に領地を受け住むことになった。その長男は感ずるところがあって、修験者となり蔵福坊と称した。以後、天正7年には熊野権現社を同地に勧請し、氏名を代々世襲にし、明治20年ごろまで祈祷を続けていた。 蔵福坊の祈祷所は東西にあったが、勧請した熊野権現は現在、権現堂の修理田...

  • 東分の「雪隠角」と「柳原の裏門」

    修理田311番地、現在の東島部落の東南、長崎街道筋にあって旧藩時代上使上下向の際、あるいは、佐嘉城入城前不浄のため、また任務終了後の帰途、身を整えるため大小便をした。「雪隠角」とはその公衆便所があった一角と言われている。 なお、その西南の土橋を「柳原の裏門」という。昔、ここに大庄屋が住んでいて、その大邸宅の裏門があったとも、上納米を蓄える郷倉があって門番がいたその東門の一の橋を裏門といったとも言わ...

  • 高尾の「堂屋敷」「八幡屋敷」

    学校から西方約200mの地点で堀で囲まれた約5.500㎡を高尾堂屋敷という。また、池田氏宅堀南を八幡屋敷という。現在水田や住宅地で何の変哲もないが、藩政時代は佐賀の東の入口で、一大要害所であった。ここに城郭があって竈王院などもその城郭の一角であったと言われる。(明治24〜5年までは小笹や松が生い茂り荒蕪地であった)また、その西には「藤棚があり江戸への参勤交代の際の送迎の地であった。なお、その辺りには慰安所...

  • 高平と「長専寺」「高平寺」

    修理田451番地の堀に囲まれた一角を長専屋敷と呼ぶ。ここには昔「長専寺」という一大寺院があったと言われる。その東北の角には大正時代まで1本の巨楠と薬師堂があった。今は「ヤクシドウ」という地名として名残りを留めている。またその南を「サラマチ」、西南を「寺町」と呼び、竹薮からは墓石が発見される。 なお、この地は古文書によれば「古溝が里」と記され、今宿江と巨勢川の合流地であり、佐賀東の入口として重要な船...

  • 高尾宿

    長崎街道は構口より丸中市場の南を通り、牛島宿の五叉路にでて旧道をとおり高尾宿の旧道をぬけ、東で南に折れ、公民館前に出た。また、寛政元年の巡見録によると当時の人数550人、戸数は、100軒ほどと書かれており、郷村帳には宿、南小路、中小路、井手小路、竈王院小路などの集落が書かれている。この宿が高尾宿で他は高尾小路である。 また、菱屋平七の筑紫紀行には「7、8町いけば人家100軒あまり、茶屋多し」と書かれ、高...

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