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「物語・いわれ」「久保泉校区」「地名・とおり名」は4件登録されています。

  • 旧川久保宿場通り

     神代勝利は中世時代にはこの北部の山地を根拠に勢力を保っていた。藩政時代になると神代家の配分地となりその中心所領となった。他方では佐賀から鳥栖、脊振、小城と交通の要所として栄えた。宿場は旅する者にとってまさに憩いの場であった。駕籠や馬にゆられて行く人、或いは歩いて旅をする者さまざまな旅人が疲労と空腹で宿場にたどりつき宿場の家並みと旅館の看板に心を安ませたことがしのばれる。この宿にも大正時代まで...

  • 檪木

     檪木は川久保と同じ神代藩の配分地で、1646年の正保絵図には『一井ノ木村』とあり、1853年の嘉永石高帳では『檪木村』となっている。当時、田は少なく木ろうが藩の専売品だったから、はぜの植栽が奨励されこの付近にははぜの林が多かった。  檪木村が、上和泉村に編入されたのは、明治12年である。  檪木の『檪』の字は、イチイ・クヌギの漢名である。  イチイの樹は、マキ科の「一位之木」、つまり昔の貴族や神官が束帯姿...

  • 川久保へ350町歩

     川久保は、邑主神代家の中心領で秀吉の島津征伐のころ(1587年)には、館をここに定め、知行1万石の領主を迎えた。  神代家は、佐賀藩が確立した1600年には御親類藩として、本藩と最も濃い血縁関係となり、大正の始めまで栄えていた。  最後の邑主神代直宝(鍋島直大の従兄)は、明治38年佐賀県に95町余を寄贈、県営第一模範林となるに先立ち、明治20年頃らしいが、当時の川久保村に山林原野100町歩、実面積350町という広...

  • 久保泉町名の起こり

    久保泉・金立・春日を上佐賀上郷といい、富士町を入れて中世は「安富荘」という荘園で、後白河法皇が建立された長講堂御領であった。 但し、川久保の十九丸は私領としての取扱を受けていたようだ。 室町期には、少弐・千葉氏の後を神代氏が支配し、近世には川久保鍋島家として石高1万石で、物成(年貢)4,300石の親類藩となった。 1787年(天明7)の領村目録では、河窪・一井之木・徳永・上泉の一部・神埼町大字竹が神代氏の配分地...

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