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[大和町][指定文化財 佐賀県 史跡]は3件登録されています。
大和町 指定文化財 佐賀県 史跡
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大願寺廃寺跡
史跡
佐賀市大和町大願寺地区の五社神社を中心とする一帯にあって、文献記録に登場しない奈良時代の寺院跡である。立地は山麓に近い標高約25メートルの扇状地上、肥前国庁跡から嘉瀬川を挟んで西方約2.5キロメートルの距離にある。 現存する遺構は五社神社境内に建物基壇(きだん)が残り、礎石約50個がおよそ4地区に分散している。その範囲はほぼ2町四方(約200メートル四方)であり、布目瓦(ぬのめがわら)の散布も同じ範囲であることから、寺域は肥前国分寺同等の規模と推定される。伽藍(がらん)配置は明らかでないが、五社神社地区に柱座の造り出しをもつ礎石が多く、かつ基壇が存在することから、この地区に中心的な建物にあたる金堂あるいは講堂の存在が考えられる。また、その東方約180メートルには東門に関係するであろう2孔を穿(うが)った礎石が1個残存する。 これまで出土した瓦には寺浦廃寺跡や基肄城(きいじょう)跡と同じ萢(はん)で造られた瓦がみられ、国分寺跡や国府跡とも合わせ、相互の関係が注目される。 なお、本廃寺跡は千葉県で出土した宝亀(ほうき)5年(774)銘鐘に記された「佐賀郡椅寺(はしでら)」にあたるという説もある。
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小隈山古墳
史跡
嘉瀬川の西約2.5キロメートル、脊振山系南麓の独立丘陵上に立地する。丘陵は四方が比較的急峻な斜面をなしており、古墳は丘陵頂部の西側尾根上、標高約60~65メートルの位置に、ほぼ東西方向を主軸として築かれる。ほぼ真西に前方部を向ける前方後円墳で、全体が蜜柑園造成により改変を受けているものの、墳形自体は旧状をよく保っている。 墳丘は、全長約63メートル・後円部径約25~27メートル・前方部幅30メートルと推定される。周濠は持たない。 現況では葺石等は認められない。確認調査では円筒埴輪・形象埴輪が出土した。内部主体は明らかでないが、円筒埴輪の示す時期から後円部に横穴式石室が存在する可能性がある。出土遺物より6世紀中頃の築造と考えられる。 古墳は前方後円墳である点に加えて、佐賀平野西部における6世紀代の前方後円墳の中で最も規模の大きなものであり、墳丘もかなり良好に遺存している。また県下最大規模の船塚古墳(5世紀中頃)の系譜上にあるものと思われ、当地域の首長墓の系列を知るうえで重要な遺跡である。
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船塚古墳
史跡
船塚古墳は脊振山地南麓のゆるやかな傾斜地に築かれた県下最大の前方後円墳である。北および東西の3方を山で囲まれて前方部を南に向け、全長114メートル、後円部は径63メートル、高さ10メートル、前方部は幅62メートル、高さ9メートルで、前方部と後円部の規模がほぼ等しい。墳丘は3段に構築され、周囲に幅12~18メートルの周濠が巡っており、これらの形態は古墳中期の特色を典型的に示すものである。墳丘上には花崗岩円礫の葺石(ふきいし)が認められ、また後円部頂から家形埴輪(いえがたはにわ)が出土している。 埋葬主体部は明らかでないが、後円部上に明治期の盗掘坑があり、内面が赤く塗られた竪穴式石室であったと伝えられ、盗掘時の出土とみられる大型勾玉(まがたま)1個のみ採集されている。 本古墳のもう一つ重要な特色は、その周囲を径12メートル前後の円墳が取り囲んでいる点である。現在7基残るが、かつては11基あったという。畿内の王陵に見られる陪塚(ばいちょう)に似た状況を示し、九州ではきわめて珍しい例といえる。 築造年代は5世紀中頃と推定される。墳丘の構造や周濠・陪塚の存在など、豪壮な規模を有する前方後円墳として注目される。