検索結果 RESULT
- 東与賀町
- 検索結果
[東与賀町][ 学校]は5件登録されています。
東与賀町 学校
-
やっすん学校
当時やっすん学校の在った場所は、住吉・石丸卯助の宅地がその跡である。「やっすん」という名称は、現在の山田政太郎の父親の名前であるらしく、指導者はこの住吉に居住した故野田甚三郎先生(後に興文小学校長)であった。ここに学んだ子弟達は少人数であったが、勉強に励み全員が興文小学校開校と共に入学したらしい。 石丸卯助の妻清千代は、やっすん学校の外観につき次のように説明した。 この石丸家は代々が士族で庄屋を勤めた。屋敷の面積も300坪、広い庭園には梅の古木が2・30本(毎年梅実を2斗5升をちぎった)や高い棕櫚の樹が数本、その他夏みかんやねずみもち等の雑木が繁茂していた。その中に東西8間半・南北8間の約60坪余りの麦藁ぶき平屋建がこの塾の姿であった。この家屋も長い歳月を経て古くなり雨漏りもひどかったために、昭和47年7月全部を解体し新築して、今日に至ったという。
-
興文塾
現在下飯盛公民館の北側にある江原氏宅付近で、その跡は全くない。古老の話によると、当時としては珍しい瓦ぶきの寺子屋で、塾長は富吉源太夫であった。既に故人の福岡長三郎先生や嘉村達次郎(陸軍少将)等の少年時代は、この塾で懸命に勉学したそうである。わが国の学制発布前の私塾で、東与賀村内ではこの外にも住吉や中飯盛・上町・今町・船津等の寺院にも開設されて、思い思いに少年達の勉学指導がなされていた。 それが明治21年9月1日わが国の教育令が発布されて、東与賀にも小学校が創立された。この時前述の私塾を総合して、一番人員や規模が大きかった「興文」の冠詞をとって、「東与賀興文小学校」という名称で開校に踏み切ったのである。この際の学校位置は、前述の私塾(住吉・飯盛・上町)等のほぼ中央ということで、現在の中学校敷地付近に平屋校舎が新築された。 その後児童数の増加により、現在の小学校位置に新校舎が完成し、この興文校の一部は、運動場東部に移転された。その校舎も「興文館」の名称で保存され、特に昭和15年には大修築され小庭も出来て、会議室・宿直室・使丁室として活用され昔の面影が残されていた。
-
実久(上町)分教場
本校の興文小学校が遠距離だったために、実久(上町)分教場が、明治22年設置された。通称を「実久分校」といい、その位置は現在の上町妙福寺の西南部で社頭氏宅のすぐ南側にあった。分校の面積は約5畝歩で教室は1棟の平屋建のかわらぶきで二教室と廊下である。教室の西側に続いて質素な職員室兼小使室の付属建物があった。この分教場の門札は、当時船津の医師故久納周甫が「実久分教場」と筆太に浄書したという伝承がある。 この分教場に学ぶ者は、本校への通学に遠い村内の立野・鍛冶屋・実久・船津・上町それに下古賀の一部の児童に限られた。しかも小学校1年生だけの男女約30名に過ぎず、2年生に進級すると本校へ登校するという制度であった。 表玄関は、北側にあって校舎の南側にはポプラの高い樹木が十数本も並び植えられて風致と共に暑い日の日陰や暴風の風よけともなった。運動場という名のつくものは教室の東側に僅かで、現在の若宮社の細長い参道や神前の広場がこの分教場児童たちの唯一の遊び場であり運動場でもあった。 この分教場で教育に携わる教師は毎年1名で多くは女教師が担任した。しかし、地域的に自宅の通勤上男教員もこの分校の担任になる事もあった。 当時の担任教師として次の先生方が想起される。 馬場 つし(立野)、村岡 新四郎(実久)、鶴 つい(上古賀)、川副 こま(下飯盛)、野田 しな(下飯盛)、丸山 秀一郎(船津)、石丸 つる(立野)、碇 フミエ(大野)。 この分教場も時代の流れに沿って、昭和4年度よりは廃校となった。したがって、明治22年に開設以来、この年まで満40年の歴史があり、ここで勉強した児童数も1.000名を超えている。この分校最後の担任教師は既に故人の村山ユキ先生で、最後の児童には下古賀の蒲原国雄・鍛冶屋の徳久タヨ子等がいる。
-
搦の寺子屋
搦の村落にも寺子屋があった。場所は現在の田中氏宅の西隣りで、海苔の乾燥小屋、これが昔の塾であった。教師はその当時仁戸田(にえだ)勝次(享)先生で、教えを受けたのは田中惣三郎・田中和吉等である。主に漢字や片仮名の書き方を習い、慶応時代(1865〜1868)が一番盛んであったらしい。 この塾のお蔭で村落内は勿論東与賀村内の子供たちは仲間意識が強くかつ親密であった。当時八田江を挟んで搦と川向こうの広江の子ども同志は、年間を通してよく喧嘩をした。両軍は堤防に陣取って、初めは口げんかからやり出しついには瓦や石ころ・泥等を投げ合っての銃撃戦ともなるのである。 初めは少人数のせり合いであるが、両陣営ともに応援隊を狩り集め、東与賀では中割の故村山健次(元村会議長)が総大将となり、川副組では広江の故原田栄一が総指揮官となって、何十、何百人に近い学童達がはでな喧嘩をやったという。これも物の投げ合いから後には濁流を乗り越えて、素裸のままに投げ合いなぐり合って決着をつけたらしい。今日の児童・生徒のじめじめした少年非行とは異なって、勇敢な男性的な運動遊戯とも言えるのである。
-
興文小学校発祥の地
東与賀小・中学校の元祖は興文小学校であるが、その発祥の地は現在江原益雄の住宅付近にあった興文塾である。同氏の談話を総合すると、その祖父の時代で建物はコの字型40坪の平屋で木材もけやきを用い、屋根は本瓦ふきの堂々たるものだったらしい。この興文塾と住吉のやっすん学校が明治21年に合併し「尋常興文小学校」として創立発足したのである。この時興文塾の建物は大部分を当時の小学校へ移転し改造築された。その一部は現在の小学校が新築される以前まで運動場の東部で、宿直室・使丁室の南側に1教室以上の広い建物があった。これに玄関や床の間をつけて戦前より戦後にかけても、かつての「興文館」の名称で、PTAの諸会合や参観・視察者の接待施設に変身したのである。