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[大和町][ 寺]は14件登録されています。
大和町 寺
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実相院
真言宗で本尊は薬師如来である。寺伝によれば開山は元明天皇の和銅5年(712)僧行基が実相院の西北方岩屋山に草庵を建て「神宮寺」と称し法相の布教に勤めたのが始まりだとされている。それから377年経過した寛治3年(1089)8月、河上神社の社僧円尋が実相院裏山一帯の荒地を開墾し一宇の房舎を建て河上山別所と称し、薬師、弥陀二仏を本尊とした。円尋は行基より49代、天台宗の僧で、ここに一宇の僧堂を建ててから如法経会を始めた。円尋を第1世として時に多少の盛衰はあったが次第に栄え宏壮な仏閣も建てられた。 寛治5年(1091)の河上社文書に 当寺の境域は 東限 大川 西限 神宮寺の登り道 南限 屏風岩 北限 鮎返河岸 とあり、行基が神宮寺を建てた岩屋山がどこであったかはわからないが、恐らく今日「上宮さん」と称して川上地区民より〆繩を張り、年一回の祭礼の場所(岩石多し)がそうだとすれば、現存する実相院所有の山林と近接している点符合する。実相院の山主は河上山座主と称し、河上神社並びに実相院の一切の権限を掌握していた。この座主職をめぐって平安初期から鎌倉末期にかけ争いが起きている。 ○ 永久2年(1114)河上社の住僧静心が神埼庄の庄官と話し合って、神埼庄の定額僧であった僧堪秀律師(第2世)の座主職を横領したが、白河院庁はこれを許さなかった。 ○ 文治2年(1186)神埼庄の庄官で、この地方でも随一の在地領主で、甘南備城主でもあった河上社の大宮司高木宗家は、謀計あるいは無道をもって僧春勝(第6世)の座主職を横領した。この争いは間もなく院庁下文によって宗家の横暴が止められたが、7か年間続いた長い争いの結果、春勝より田地17町を譲り渡すことで座主職は春勝に戻った。 ○ 元弘2年(1332)第12世円雅座主の時、大宮司高木家直と社務管領権争いが起きた。大宮司が主張している関東下文も鎌倉幕府の衰退と建武の成立によって挫折した。 ※実相院お経会 如法経略縁起に「天長頃最澄神足円仁嘗在四明北かん(谷)屏居修練。以石墨草筆書写金文蔵之小塔。置一庵名如法堂(以下略)とあり、天長年間(824-834)、天台宗開祖最澄の弟子円仁(後の慈覚大師)が法華経を書写して小塔に納め、庵を建てて如法堂と名付けたと記され、更に次の事が書かれている。 円仁(延暦寺第2世慈覚大師)が40才の時の天長10年(833)に重病にかかり余命が長くない事を知って、比叡山の北谷に草庵を建て、ここにこもり心静かに臨終を待った。ある夜のこと、天人から薬を授けられそれをのんだ夢を見て以来病気が快方に向かった。 そこで彼は「四種三昧」という一種の天台の禅定法を行い法華経八巻を書写し、それを小筒に入れて如法経といい、そこに一庵を造ってこれを納め如法堂とよんだ……と。 これ以来如法経が始まり納経も行われている。実相院のお経会は堀川天皇の寛治3年(1089)河上社の社僧円尋が如法経会を始めた。その儀式は天台の禅定法を行い、法華経を書写して経筒に納経している。こうした儀式が今まで約880年間続いている。元亀元年(1570)兵火にあい、建物は焼失したが如法経会の中断を恐れて焼跡に仮寺を建てお経会を営んだとある。寺地を現地に移転し寺院を再建したのが元亀3年(1572)で、これ以来の末代過去帳が残されている。400年間のお経会の唯一の記録でお経会を中断したのは元和8年(1622)みやき町千栗八幡社対河上神社の一ノ宮争論の時と、寛永15年(1638)有馬原城合戦の年の2回だけである。 法会の儀式は厳粛で、声明(お経のふしづけ)法式(儀式)は実相院独自の創意を加え、その歴史の古さと宗派の区別のない信徒を有することは恐らく全国まれにみる大法要といえよう。 お経会の行事 毎年4月9日午後から始まり20日までで終わる。 4月9日午後 禁酒入りの式、以後経会中職衆(僧侶)は断酒する。 10日 道場清め式 御輿内に一字一蓮の法華経八巻を納める 11日 当山中興良瑞僧正以下先師法要 12日 大般若経飾り 13日 大般若経転読会 14日 午後2時半から経紙清め式(川上川にて) 15日 お経水汲み式(写経の水)経筥渡し式 16日 立筆式(写経の書き初め式) 17日 書写経(法華経八巻) 18日 午前中写経 午後写経巻き 19日 経筒納め式 御輿内の一字一蓮の法華経八巻ととりかえる。 20日 お経送り 経塚納経 20日の法要は前日までとすっかり変わり、当山座主が大導師となって、厳かな法要が行われ、過去帳の奉唱回向が数時間続き、終わってお経送りとなる。10日の晩の法要から15日の晩まで、毎日初夜(夜)、後夜(朝)、日中(昼)と1日3回約2時間お経があがるが、16日から19日の日中まで日中(昼)初夜(夜)との2回になる。お経ごとに入浴して身を清め、湯上り用の白衣で水気を落し(タオルは使用しない)経会専用の白衣、麻地黒色の法衣を着け、袋足袋、草履をはいて入堂前に「惣陀羅尼」というお経を三たび唱えて入堂する。講堂は竹格子の内側に網が張りめぐらされ職衆以外の人の入堂は禁じられている。
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健福寺
大和町大願寺にある真手山健福寺は和銅年中(708~715)、僧行基が「元真手」山中に開基したといわれている。その真偽はともかくとして当寺が鎌倉時代初期に存在していたことはここにある銅鐘の銘によって明らかである。 真言宗で本尊は千手観世音菩薩である。中世以前の健福寺は本尊は十一面観音菩薩で、現寺地より北方約2㎞、急峻な高台で、現在柑橘園になっているが、応永年間(1394~1428)作の「真手地蔵」がまつられ、散在していた古い墓石がこの後方に集められている。盛んであった頃七堂伽藍が立ち並んで「真手千坊」といわれた。元亀元年(1570)大友勢のため戦火に遭い、再び慶長元年(1596)大洪水に遭うなど雄大を誇っていた寺院も次第に荒廃して行った。寛永11年(1634)、実相院の座主であった尊純が当山に移り住み現地に再興した。本尊の千手観音はこの時の建立であるという。付近の経松経塚出土の滑石製経筒外筒(太宰府宝物殿蔵)等が健福寺に関係あるかどうか確かなことはわからない。 ここ健福寺にある銅鐘は鎌倉時代初期の作で、大正2年(1913)8月20日国宝に指定され、昭和25年(1950)8月29日には重要文化財の指定を受けているものである。全高は84㎝、笠形までの高さは67.5㎝、口径47.5㎝で乳の間は四区に分れ、一区に十六乳ずつ鋳出されている。池の間には次の銘が陰刻されている。 「肥前国山田西郷、真手山奉鋳洪鐘壱口、右且為令法久住、且為法界衆生、奉鋳洪鐘矣。建久七年丙辰十一月十九日甲午。満山大衆、定西、○秀、蓮生、永舜、長勢、良祐、聖舜。大檀那散位笠時貞、鋳師○末則、伴兼経、笠貞茂、源守直、平助国、伴季忠、藤原道宗、藤三郎。貫首藤原真保、伴兼信、酒井貞経」 この銅鐘は中世当地方に山潮が出て遠く佐嘉まで流出し、一時龍泰寺に留められ、藩候時報として使われていたといわれている。鐘の肌は相当荒れており、やや音色が変わっているのは一部にひびが入っているためだといわれている。川上地区内の浄財寄付によって建設された鐘堂に安置されている。
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万寿寺(お不動さん)
仁治元年(1240)神子和尚が開山した寺で、四條天皇から「水上山輿聖万寿寺」という寺名をもらったといわれる臨済宗の寺である。本尊は神子和尚作と伝えられる不動明王である。 「鎮西要略」並びに「開山行業記」の中に『大治五年(1130)水上山に善住という異僧がいた。天台宗の僧で、ここで不動の法を修すること多年、天がその仏心に感応してその年の五月二十八日丑の刻(午前二時)に宝剱を下された。天皇のお言葉によって一旦宮中に収められたが、瑞相がしばしば起るので再び水上山に返された』とある。この宝剱といわれるものは現在寺宝として保管されている。 春日山高城寺を開山した順空和尚(後の円鑑禅師)は当山第3世である。永正14年(1517)64代天亨和尚は龍造寺隆信の曽祖父家兼の弟で、後柏原天皇より勅願寺の綸旨を賜り勅願第1世となった。9世是琢和尚は鍋島直茂公の御側役として文禄の役の時朝鮮に渡り、彼の地より画幅を持ち帰ったものが残っている。梁の武帝離宮の図や蓮鷺の図、特に十六羅漢の仏画は明国仇英の画風を伝える貴重な物といわれている。旧藩時代は鍋島家の祈願所となっている。 現在の堂宇は明治5年火災後再建され、その後もまた時々修理されている。当寺の墓所正面の五輪塔が神子和尚の墓で、向かって右側の無縫塔(卵塔)が勅願寺第1世天亨和尚の墓である。
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高城寺
本寺は文永7年(1270)鎌倉幕府執権北条時宗が敷地山林を寄進し、久池井の地頭国分次郎藤原忠俊(尊光)によって創建された。開山は順空、後の円鑑禅寺である。元弘3年(1333)後醍醐天皇より勅額や綸旨を賜り、以来、勅願寺として歴代朝廷の帰依も厚く、また鎌倉幕府の祈祷所としても尊ばれた。多くの寺領の田畑300余町(約300ha)を有し、塔頭などの伽藍が立ちならび、聖地として、また、肥前国内の名刹として有名であった。 正平7年(1352) さしもの輪奐の美を誇った堂宇も戦火のため焼く失し、その後、征西将軍懐良親王によって再建されたが、200年を経た永禄12年(1569)大友氏が佐賀を襲ったとき再び焼失した。 龍造寺氏のときになって、隆信公の崇敬をうけ、肥前国における臨済宗本山として、末寺も多く鍋島直茂公は寺地山林を寄進し、歴代藩主の祈願寺としてつづいたが、明治維新の廃仏毀釈により寺領を失い、衰退した。 また、本堂は平成3年(1991)当時の林静夫城徳寺住職(高城寺住職兼任)と檀家により発起され、14年の歳月を経て平成17年(2005)10月1日に落慶となった。檀家数は約20軒である。 なお、順空が東福寺上京の際に弟子たちが別れを惜しんで造立されたとされる蔵山順空像は国の重要文化財として、佐賀県立博物館に安置されている。
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光明寺(廃寺)
大和町今山の北、男女山南のふもとに浄土宗光明寺跡がある。鎌倉3代執権北條泰時の子孫が仏門に入り、筑後国(福岡県)善導浄寺の開山聖光上人の弟子となって修行し「正空」と号してこの地に光明寺を建てたのが始まりとされ、建治年間(1275~1278)の昔である。 正空上人は性柔和で頭脳明晰、ついに一宗の奥義を究めた名僧で、その徳を慕う者数多かったという。光明寺の堂宇は「大廈宝塔の備え厳然として」とあるから大規模な建築だったのであろう。浄土宗寺院調によると、寺領は田畑屋敷五反八畝十六歩、地米八斗三升八合となっている。現存している聖光寺は光明寺の隠居寺で外に末寺として金蓮院、福萬院、宗明院、三浄寺、平等寺、西念寺等が記録に残り、今は皆廃寺になっているが、昔は今山、横馬場一帯は仏法繁栄の霊地であった。それからおよそ300年を経た元亀元年(1570)今山合戦の時、大友の部下9人が当寺本堂で自害したが、その時彼等一党の放火で光明寺はもちろん末寺に至るまで焼失した。それから10余年後乃誉上人という有徳の僧がこの地に寺を再興し在住すること数年、のち還俗して堤又二郎と名乗り、太閤秀吉の朝鮮役の戦陣に加わり、戦功をたてた事で光明寺の地50余石を与えられている。こうして栄枯盛衰の過程を経て寛文のころ、臨済宗の僧仏岸和尚が霊場の荒廃をなげいて信徒と共に荒地を開きお寺を建て、観自在尊を本尊として安置し布教に勤め、併せて北方の峰に弁財天を祭った。 仏岸はもともと臨済の僧であったが、天性浄土の教義に帰依していた名僧である。和尚が如意宝珠経を読経していると白蛇が現われ、又法華経を読経していると机上に不思議な虫が出たりあるいは白狐が出て来て経文に耳を傾けたという伝説がある。 後年長崎の福済寺管主として20余年を過し、享保14年(1729)86才で死んだ。分骨して当山に葬り石塔を建て碑文に「當山中興仏岸圓老和尚、享保十四年己酉天十一月八日」とあり、庵室の西方山中に建てた。(聖光寺古文書による) 〔享保14年(1729)〕
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玉林寺
永徳2年又は弘和2年(1382)9月、鎰尼信濃守季高が建立し無着禅師の開山である。 鎰尼季高寺地寄進状写 建立 箱崎御領肥前国朽井村玉林寺敷地山内外田畠等之事 四至 限東朽井堺堀通 限南若宮御前馬場堀道 限西四万取川 限北那於山堺 仍已後之證文如件 李高判 ※朽井=久池井 四万取川=市之江 那於山=名尾山 永徳二年九月五日 更に至徳3年(1386)正月18日付で鎮西探題今川了俊より季高寄付の田地を安堵する旨の文書が残っている。 一、至徳三年=元中三年(1386)今川仲秋玉林寺に佐賀郡内の地を寄進 一、明徳二年=元中八年(1391)鎰尼李高玉林寺に巨勢庄内の地寄進 一、慶長二年(1597) 藩祖鍋島直茂玉林寺に寺地を寄進 玉林寺は薬師如来を本尊とした曹洞宗である。山門には四面に十六羅漢の彫像があったが、今は山門もなくなり羅漢像は本堂に移されている。この像の作者は不明だが、3月の澄み渡った夜には読経の声を聞くという伝えがあって「経読み羅漢」ともいわれている。 無着禅師は大隅(鹿児島県)の人で姓は藤原氏である。日州大慈寺無外禅師のもとで仏教の教えを受けている。曹洞宗の開祖道元和尚の第7世の法孫である。禅師は季高に頼まれて法座を開き寮を造って弟子達を養成した。惣座及び十僧ヶ原の地はその跡だという。晩年、寺の西方に羽黒権現の御堂を建て、北方の放生池畔(青年の家の所の池)に弁財天を祀った。 北朝の後小松天皇より御綸旨(天皇の意をうけて出す文書)及び「玉林禅寺」の勅額を授けられ、以後紫衣の道場(高僧達の修験場)として曹洞宗の僧侶の任官、進級等の事を当寺で行うようになった。当時この寺が如何に権威の高い寺であったかが想像できる。 しかし、残念ながら室町時代の中ごろ、兵火のため堂宇宝物皆灰になった。天文11年(1542) 後奈良天皇は御綸旨と「勅賜玉林禅寺」と「祈祷」の勅額を賜わり、これらの勧額は今もなお仏殿に掲げられている。
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通天寺(通天庵)
深江信渓の父茂利はかねてから肥前の名刹安国寺再興を念願していたが、果たすことができないで死んだ。そこで二男杢助は父の遺志を果たすため、井手にある廃寺同然の信渓山通天庵を復興し、山号を安国山、寺号を通天寺と改め、信渓山の名称を杢助自身の号とし、深江平兵衛杢助信渓といった。信渓は賢渚和尚(後に高伝寺12世)を開山とし、信渓自身は開基となった。明暦3年(1658)2月のことである。のち通天寺は高伝寺の末寺となった。
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永明寺
深江信渓は当時の社会全般が浮薄になって、敬神崇祖の精神が衰えているのを嘆き、神仏信仰と忠孝の精神を盛んにしようとして、北原村(現在北原団地)にある法華山永明寺という荒れ果てた寺の再興を計り、山林一町(1ha)余を寄付して成就した。更に寛文2年(1662)43才の時、大木英鉄、真阿上人らと話し合って、楠公父子の尊像を佐賀城下に奉祀しようと、神社創立の趣意書を作り、奉加帳を回して藩内上下の賛同を得ようとした。この趣意書は 『恐れながら沙彌信渓、謹み申して申さく、それがし人身に生を受け、君臣の交りをなすといえども、不浄垢悪(あかのように汚れ)の心にして忠孝の誠を失う。天下万民、僧、釈、道にあらざれば、身を立て世を渡る事あたわず。この3つの道共に忠孝を本とす。ほぼこの理を尽すといえども業因深くいたずらに43年の春秋を送る。−中略−願わくは日本無双の名将、忠孝の勇士なれば、楠河内守正成公、同帯刀正行の面影を作りて、予が草庵に崇め、心あらん朋友等に拝ませて、人の心に忠孝を深くせしめん事を。大名たり釈門たらん人はこの両将のために塔をも建て寺をも作り、かつは亡魂を弔い、かつは仏法王法の助護ともなすべきに、さばかりの名将のため寺をも建てず、堂も作らず、誦経念仏する人もなく、空しく300余年を送る。浅ましきにあらずや。それがし旦暮(朝夕)にこれを思うといえども、財なく徳なきの隠れ人、更に言葉に出すべきにもあらず。心を同じゅうするの僧俗にようやくこの事を語る。在家には大木英鉄という者、法師には真阿上人のみ、この両将を重んじて絵にかき文字に書き、その跡を問い深く忠孝を貴ばん。天下広ければ寺をも建て、影を作りて崇むる人有るまじきにもあらざれども、摂津兵庫塚を見れば、草木を上に植えたるのみなり。浅ましきかな。世に忠実の人なく孝真の人なきが故に、我らの如き不義のやから世に多きものなるにや、これによりそれがしいやしくも両公の尊影を作り、父母主君の名号と共にこの影を拝み、燈花の一閑となさん−以下略−』 と赤誠あふれる文で書かれている。この切々たる心は藩主光茂を動かし、世子綱茂、蓮池藩主直澄、小城藩主直能を初め230余人の賛同署名を得た。そこで京都に上り仏師法橋宗南に依頼して、楠公父子桜井駅訣別の甲冑尊像を作り厨子に入れて佐賀に持ち帰った。 信渓はこの尊像を寛文3年(1663)5月25日北原村永明寺に安置し自分で祭事を営みその霊を慰めると共に、人々にその美徳を教えた。これは我国において、おおやけに楠公をまつった最初であり、元禄5年(1692)徳川光圀が湊川(神戸)に建てた「鳴呼忠臣楠氏之墓」の碑よりも29年前のことであった。 その後信渓は亡くなり、この尊像は行方不明になっていたが、文化13年(1816)の春佐賀市本庄町の鍋島家菩提寺である高伝寺の楼上に放置されていたものを発見し修復した。嘉永3年(1850)5月になって、枝吉経種(神陽)は弟子の江藤新平・大隈重信・大木喬任・副島種臣らと計って、義祭同盟を組織し、この会によって同年5月24日、尊像を佐賀市本庄町の梅林庵に安置して祀った。しかし、安政元年(1854)には、佐賀市白山町の八幡神社境内に新しく楠公社を造りここに祀った。これが現在の楠公社であり、この尊像が祭神である。 北原の永明寺は今は廃寺となり、寺地は大和団地となっている。信渓は晩年を通天寺で過したが、天和2年(1682)8月5日、63才をもってこの地で死んだ。 法名「安玄正機上座」と称し、墓は松瀬井手の通天寺にある。
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湛然和尚と華蔵庵
湛然和尚は鍋島家の菩提寺である高伝寺の第11世の住職であった。寛文のころ城内中の館円蔵院の住職村了和尚は、かねがねの希望として、円蔵院は龍造寺家純代々の菩提寺だから藩内12か寺の列に加えてもらうように願っていた。ところが思うように行かないので、藩主光茂が本庄の慶誾寺へ参詣した機会をとらえて、光茂が礼拝する時仏壇の下から直訴した。光茂は怒って八戸の天福院で寛文9年(1669)2月2日死罪にすることになった。 湛然和尚はこのことを聞いて不びんに思い、助命を嘆願したが聞入れられなかったので、その場から直ちに鍋島新庄の東善寺に入った。これを知った光茂は上使をもって寺に帰ることを勧めたがこれを退け、逆に出国を願うこと数回にも及んだが許されなかった。そこで湛然和尚は出国脱出を図り東善寺を出て三反田の地蔵橋辺りまで来た時、藩の捜索隊に追い付かれ押し問答のすえ、使者は申し開きのために切腹した。そのころ井手の通天寺にいた深江信渓の慰留もあって、一先ずこの通天寺で暮すことになった。その後再三にわたって上使が来て光茂の上意を伝えたので、湛然もようやくこの地に留まることを承諾した。光茂は和尚のために菅の谷・熊の峰の山林を開墾し、薪炭料として山林4町5反(4.5ha)、寺地7反余(70a)、4間に5間の御堂、庫裡、書院を建て、食料として10石を贈った。 これが華蔵庵である。和尚はここを訪れる人があれば大慈悲の道を諭し、人去れば座禅三昧に行雲流水、風月を楽しむなどして十有一年の禁足に近い生活をし、延宝8年(1680)11月10日(新暦12月30日)死去した。大和町松瀬字仲の華蔵庵跡にその墓がある。 その後堂宇も消滅し、境内は雑木繁茂し荒廃して、傑僧湛然の名も年と共に忘れられようとしているのを惜しみ、昭和9年3月福田慶四郎、古川虎雄、上野夘三、木塚嘉一郎の四氏が、同志を募って境内を整理し「湛然和尚穏棲之庵跡」と刻記し、西村謙三氏の碑文を刻んだ五輪塔を建てた。又通天寺にある和尚の木像を修理するなど、和尚の事蹟をしのぶと共に世人に対する暁鐘とした。今は杉林の中に五輪塔を見るという有様であり、この杉林を通り抜けるとやや小高い場所に苔むした湛然和尚外代々の墓が並んでいる。山本常朝はこの湛然和尚の影響を受けたので、葉隠の中には湛然の言行が多く記してあり、「出家は慈悲を表にして内にあくまで勇気を貯う、然らざれば仏道の成就出来ざるものなり。武士は勇気を表に、内心には腹の破るるほど大慈悲を持たざれば家業は立たざるなり。よって出家は武士について勇気を求め、武士は出家によって慈悲を求むるものなり」 「武士たるものは、忠と孝とを片荷にし、勇気と慈悲とを片荷にして二六時中肩の割込むほど荷うてさへおれば侍は立つなり」「朝夕の礼拝、行住坐臥、殿様殿様と唱うべし」 「慈悲というものは、運を育つる母のようなものなり」 などといっている。こうした厳しい言葉の内に限りなく温かなものが秘められているところが葉隠精神、鍋島武士道の特色ともいうべきものであり、これはこの湛然和尚の教えを受け継いだものと言われている。松梅の井手に近い上一区(柚木川)に地蔵尊があるが、これは湛然を追って来た使者で切腹した者を祀ったものだと伝えられている。この地蔵尊は石室内に祀られ、その後壁に 願主沙門月海是心 寛文十一年八月彼岸日建 とあり、悲劇後2年目に当たる。月海是心は通天庵3代の和尚でその墓は通天寺墓地にある。地蔵尊の後方にある自然石の墓は使者の墓だと伝えられ、それは最初2基であったが、1基は明治42年(1909)の山潮で流失し、今は1基のみ残っている。このことから切腹した者は2名であったろうと想像される。
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尊光寺跡
久池井と国分の地頭であり、高城寺の開基である国分次郎藤原忠俊が建立したものである。最明寺入道時頼が正嘉元年(1257)全国を行脚して肥前国へきた時、尊光寺へ宿して地方を巡視したと伝えられている。現在は場所が特定できない。
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覚正寺
西山田地区の中程に浄土真宗本願寺派放光山覚正寺がある。開基は星野十三郎で仏門に入って法名を覚正といった。星野十三郎の先祖は筑後の国星野城主(福岡県八女市星野村)で、落城後佐賀に移り住み、十三郎の父は藩祖鍋島直茂に仕えていた。十三郎は初代藩主鍋島勝茂に仕え、本知行の外に36石の扶持(俸録)をもらった侍であった。十三郎が江戸で奉公していた時相撲取りと争い眼玉を損傷した。思うところあって家督を譲り、単身大阪に出て真宗寺の門に入り出家得度した。法名を覚正と改めた。慶長のころ帰国して佐保川島郷(旧川上村)大願寺村五社境内の傍らに一宇の草庵を建て念仏三昧の日を送った。慶長の末、第2世休玄の時西山田村氏神貴船明神の霊告に 「社地の左手に池あり、その辺りに寺を建て念仏をもって村民を済度すべし」とあったので、西山田に小庵を建て移り住んだ。現在「寺屋敷」という地名が残っている。元和の年(1615~1624)、本堂並びに鐘楼、太鼓楼等を建立し、寛文2年(1662)2月京都に上り、本願寺より本尊並びに寺号を受けて帰った。寺号は第1世覚正の法名をそのままとり覚正寺と名付けた。元禄10年(1697)2月、第3世李芳の時銅鐘を造り、寛延の年(1748~1751)佐賀藩主6代鍋島宗教から金光明経を下付されている。貞享のころ(1684~1688)は建物等はなはだしく破損していたのを修復したとある。 寺屋敷から現在地に移転したのは第6世の時で年代は不明だが、その後宝暦4年(1754)の出火、文政11年(1828)の台風によって建物や諸記録、什器、宝物等焼失又は破損し由緒は詳かでない。 当寺は昔から眼病の家伝薬を伝えて有名であった。それは開基星野十三郎が江戸表で眼玉を損傷した時、大久保加賀守の家来沢田某より眼療秘法の皆伝を受けたことが代々伝えられたためである。藩祖直茂の眼病を直し、寺地2反(20a)余の免地を受け、その後も佐賀藩主や小城藩主の眼病治療によって寺地1町5反(1.5ha)余を与えられている。(以上安政五年七月覚正寺由緒覚による)
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常立寺
尼寺より北に徒歩10分、北原地区の中程に真宗の一寺がある。浄土真宗本願寺派慈光山常立寺である。室町末期の創建で隆円教師の開基である。寺伝によると、隆円教師はもと武士の出で一族の霊を弔うためこの地に建てたという。一族とは太宰少弐のことで、更に300年をさかのぼる源頼朝の時、鎮西奉行として軍事を司った藤原資頼が先祖に当たる。資頼は太宰少弐(太宰府の次官)に任ぜられ、後にこの官名を姓としたものである。過去帳には明応6年(1497)4月19日太宰少弐政資(墓は多久市多久町専称寺)。同高経、天文4年(1535)少弐資元(同前)、元亀4年(1573)太宰彦六郎政経、文禄3年(1594)太宰彦右ヱ門久経とその一族が続いて祀られている。この彦右ヱ門久経一族から坂本並びに平原姓を名乗った者が出ている。常立寺の住職は代々太宰姓を名乗っているが、太宰彦六郎政経が祖であるかは未詳である。 少弐氏は鎌倉時代から鎮西奉行を勤めていたが、九州探題に非協力だったのでついに応永3年(1396)、少弐貞頼は探題渋川満頼の将大内氏により亡ぼされた。これ以来少弐一統は盛衰興亡の歴史を繰返していった。文明14年(1482)、少弐政資は神埼郡内の地20町を河上神社に寄進したり、同15年には渋川氏を綾部城(中原)に襲って敗走させたり、明応3年(1494)ごろまでは隆盛の時代で、明応6年(1496)一時太宰府に移ったが、再び大内氏に破れ、小城の晴気城にのがれた。しかしついに大内氏の兵に攻め落され、政資は多久で自殺し、高経も南山(富士町)の市ノ川で自殺した。 約40年後の天文年間(1532~1555)、その子孫少弐冬尚は少弐の将龍造寺家兼によって、宿敵であった大内氏を破り、神埼の勢福寺城主として栄えていた。ところが馬場頼周のざん言を信じ、家兼一門を殺したので家兼の子孫龍造寺隆信によってついに少弐一門は滅亡の悲運を迎えた。 勝敗は兵家の常とはいえ、戦国乱世の時代をまざまざと感じさせるものがある。しかし隆円教師の開基になる当常立寺は庶民に根を下した在家仏教として、法灯は永く受けつがれ今日に至っている。
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野口の大願寺(廃寺)
野口の堤を北へ約200m行った所に天満宮がある。その参道の途中から右に、更に北へ登ること約200mの所が大願寺廃寺跡である。 天明5年(1785)の村絵図を見ると、上佐嘉北原村にはすでに光沢寺、常立寺、最明寺観音社もあり、深江信溪が私財を投じて再建した永明寺(廃寺)も現大和住宅団地の場所に描かれている。大願寺はこれらの寺社に比べて大きく描かれ、仏殿は南面し、入口の門内右手に鐘楼、左手に東面した建物(祠堂か)がある。ここを更に登った新堤の北側(現在蜜柑園)が開山堂跡で、そこには今も開山以下第7代までの和尚の墓が並んでいる。開山の墓石には 「元禄十五年、門弟子等敬建、於万年山開山青海東大和尚」と刻まれている。 享和元年(1801)3月31日、平田常四郎書御祈願寺社の中から、大和町関係の分を挙げると春日山高城寺、河上山実相院、万年山大願寺、水上山万寿寺の文字がある。 当寺の由緒記(臨家宗より)には、 当寺の儀玄梁院様(三代綱茂)新に御建立遊ばされ、御開基なされ成青海を開山に相定めらる。御公儀並御国家御安全の御祈祷仰せらるにつき且亦江戸御屋敷御祠堂に被為立候。御本尊さて又御代々御先祖様御位牌、開山に御渡永々御焼香頼みなされ候。因って茲に御本尊は仏殿に安置奉り、御位牌は御祠堂に安置奉り、開山より以来只今朝暮の勤行怠りなく候。開山住職の間は諸国の学人(勉学僧)数十箇集会致候。其節迄は寺領等の御定これなく、飯料其外一切の入方毎歳会所より差出され相済仕り候。二代の時法性院様(四代吉茂)御代寺地二町五反七畝御寄附。且又飯料の為八木(米)二十石宛毎年下しおかれ候………(以下略)(註 成青海は青海東のこと) 右之通り御座候 以上 寛政元年(1789)酉七月 大願寺 看坊祖関 圓通寺納所禅師 山号寺名は旧川上村大願寺廃寺からとって名付けた記録がある。この寺がいつ廃寺になったかははっきりしないが、第7代月澗錫大和尚の墓石には文政元年(1818)寂とあるから、その頃までは存続していたと見るべきである。
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蓮福寺(浄土真宗本願寺派)
平安時代末に菅原道真の末裔が開山したと言われている。 現在は、浄土真宗寺院であるが、開山当時は、天台宗か真言宗の寺であったと言われる。 本堂は江戸時代に焼失し、現在の本堂は明治13年(1880)に建立されたものである。