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[大和町][ 跡地]は4件登録されています。
大和町 跡地
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春日城跡
標高235mで頂上に富士社の石の祠が祀ってある。この峯は甘南備山と称する。一条天皇の御代(987-1007)中納言文時が居住し、文治2年(1186)文時の末裔高木宗家が、城砦を築き肥前国を風靡していた。弘治3年(1557)にこの城をめぐって、龍造寺軍と神代軍との攻防戦が展開されている。
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館屋敷
天明6年(1786)の絵図面を見ると、松梅小学校運動場の東南端を横切り、通天庵南の道路に結ぶ直線道路があって、この道路を「馬場」と称し、幅5.4mというから今の県道並みの道幅で長さ90mの両側に杉が植えられていた。 館屋敷は校門の東、現県道を含み名尾川線まで500坪(1650㎡)の敷地内に建坪50坪(165㎡)内外の建物があり、周囲は塀又は柵がめぐらされ、大きな濡れ門があった。この館並びに馬場で、山内の帯刀侍達が武術や馬術を錬磨していたといわれる。年2、3回行われていた大会には代官、大庄屋、佐賀藩から来た来賓が列席し、相当の賞が与えられていたという。維新以後、杉の立木も漸次伐採され、建物も腐朽し、大正2年(1913)現地を整地して松梅小学校が建てられた。昔の面影はなくなったが、整地の時杉の老木の枯株が残存していたとは古老の話で、土地の人は今もこの地を「館」といっている。
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三反田代官所跡
三反田は昔、佐賀と筑前(福岡)、佐賀、浜崎に至る交通の要衝で、天明6年(1786)作の絵地図を見ても人家が立ち並び、宿場駅として山内では最も繁栄していたようである。ここに三反田代官所が置かれ高札場もあった。 高札場は基礎石垣の高さ5尺(1.5m)、長さ1丈余(約3m)の高台に高札4枚が立てられていた記録があり、明治維新になって道路築造のため全部取り除かれたようである。 昔は佐賀山内、小城山内、神埼山内を含めて山内郷といっていたが、今の松梅・八反原地区、富士町、神埼町の山間部を含んでいる。 葉隠の6巻に、山内御支配のこと。という見出しで大要次のことが書かれている。 「ここは神代勝利の支配地であったが、佐嘉の龍造寺隆信としばかしば合戦し、ついに龍造寺領になった所である。ところが隆信から鍋島直茂、勝茂と藩主が代っても、相変わらず山内領民は神代を慕って佐賀藩に対し従順でないところがある。そこで佐賀藩庁では山内をうまく支配できる人物の派遣が先決だと考え、その人物の選考に入ったが適当な器量人が見当たらない。ついに21歳の青年鍋島舎人に決定した。舎人は松瀬に屋敷を構え、山内代官として善政を行った。藩庁のおめがね少しも違わず、山内の郷民は彼を慕って主人のように仕え、佐賀藩へも従がうようになった。彼は山内に刀差(帯刀を許し俸禄はない)500人を命じ鉄砲1挺ずつ持たせた。(註=舎人は鍋島茂利とも称し、後髪を下し入道正哲と号した。長男宗英は2代の代官を勤め、二男杢助は後の深江平兵衛信渓である。) 舎人の善政に感じた藩庁ではその後も山内、本庄、鍋島の代官、下代(代官の下役)は舎人の組衆から採用し、藩主自ら山内まで、少くとも川上まで来て山内の者に接見し、酒を与え、又山内の者から物を献上し、大庄屋4人お城へまかり出てお礼言上し、お酒を拝領するなど緊密の度はますます加えられていった。時には殿様が不時に山内にお越しになった時も同様の事をした。」 寛政年間(1789~1801)になって藩内一般に代官所を置くようになり、ここは駄市川原の支配下となった。
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大砲演習場跡
嘉永7年(1854)大久保に佐賀藩の大砲演習場を設置した。これまで石火矢(大砲)の試射や発火演習は神埼郡西郷村岩田(現神埼市)で行っていたが、道のりが遠くて往復に日数がかかり費用もかさむので、もっと便利な所に変えようと大久保に新たな台場を築いて、大砲専用の演習地とすることになり早速工事に着手した。ここは小城藩の領地であるが築地(現在佐賀市日新小学校敷地で、鍋島直正が嘉永3年=1850反射炉を築き大砲の鋳造工事を始めた所で、我が国で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した)や多布施公儀石火矢鋳立所(多布施川、青木橋の西南側で嘉永6年幕府の依頼により、佐賀藩がここで大砲を鋳造した。)の西北8kmぐらいで便利がよく、ここを本藩の演習地とし、使用することになった。ここから約1.2km北方の大願寺山に向け轟音を発していた。この標的地一帯の地名を「矢先」といい、この付近から再々球形の弾丸が出土している。