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[大和町][ 行事]は26件登録されています。
大和町 行事
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ほんげんぎょう(鬼火)
1月7日、朝まだ暗いうちに起出て、門前や鎮守の境内、村外れ等適当な場所を選んで火をたくがこれを「ほんげんぎょう」という。これは全国的な行事で、鬼火たきというのは鬼退治の意である。昔、宮中では清涼殿の東庭で青竹を連ね立て、扇子や短冊などを結びつけ、それに御吉書を添えて焼いた。これに対し民間では書初めの清書や門松、〆縄等を添えて焼いたのがやや形を変えて残ったものといわれている。子どもたちは前日までに山や土手に行って竹笹を刈り、それを束ねて立てたり小屋を作ったりして、翌日未明にこれに火を点じ、歳徳善神に供えた餅を焼いて食べた。この餅を食べることによって、禍を除き福を得ることを祈った。所によっては小屋の中に前夜から餅や菓子を持寄り、一夜楽しく語り合い、遊んだりして翌朝この小屋に火を点じることもあったが、これは危いので大正時代の末ごろから禁止された。また、点火してから竹竿に吉書を結びつけて燃やし、その灰が空高く上がれば上がるほど手蹟が上達するとされていた。桟敷地区では「鬼」の文字を書いた紙をくべ煙にのせて空へ高くあげるのを競うようである。竹の燃えかすのまだ煙が出ているのを拾って田んぼへさし、虫害除けのまじないにしたり、上部を三角形に折り曲げ門口に立てて魔除にする所もある。
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初入り
「おはつり」「おはつい」「おのうりゃあ」とかいって、1月7日に親類同志一家こもごも客に招きまた客として行っていたが、次第に7日と限らずその前後にするようになった。また、後には一軒々々を回らず、毎年当事者を決めて1回だけにする「出合ぁのうりゃあ」に切り換えられていった。「のうりゃあ」というのは「直会」つまり「なおらい」 「なおりあい」 「なおあい」等のことで今まで正月の神事のため不浄をさけていたのを平常に返すことで、神事が終わって後、神酒、神饌をおろしていただく酒宴またはそのおろした神酒のことをいったものである。後には神事など省略され、単に親類同志の新年宴会のようになった。
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七福神
これも1月7日の行事でこれは町内でも少数の地区で行われた。地区の青年や子どもたちが七福神装束をして、その地区はもちろん他の地区まで回って各戸に「七福神のはいり」と唱えて、七福神の所作ごとを演じた。その家の幸運を祈り、かつお祝いのことだからどこの家もこれに対し、餅をやったりお祝儀を包んでその好意に報いた。現在でも柚ノ木、福島、川上各地区の一部で行われている。また、この日の夜煎豆をまいて「鬼は外福は内」と唱える所もあったがこれは後に節分の日だけになった。
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荒神餅
1月9日の朝は荒神さんに供えた餅を焼いて食べる。この餅はへっつい(かまど)を模して作った餅で、所によっては男性に忌まれもっぱら女性専用の餅であった。つまり男性が台所くさくなってはいけないということであろう。
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土龍打ち
土龍打ちは1月14日に行う男児の行事である。ころのよい5、6mの雌竹を切ってきて、そ の先にわらずとをくくり付けたもので、地区の各戸ごとに庭先に円陣を作り、もぐら打ちの歌に合わせて地面を叩くのである。すんだらそれを各自持ち帰ってわらずとの付近から折り曲げて自宅の柿の枝にぶらさげておく。土龍打ちをしてもらった家は、土龍打をしてくれた子供達の家族内の子どもの数だけ小餅をやるので、兄弟姉妹の多い所はたくさんの餅をもらったものである。この行事はもともと田畑を荒すもぐらの害を除こうとするものであったが、次の歌詞のように果樹の豊産を祈ることに変わったようである。また一説には新しく来た嫁を祝う行事ともいわれ、竹の棒を男性のシンボルとし、それで嫁の尻を叩くと早くみごもるという意味もあったという。現在でも出羽、小川、久留間、今山、今古賀あたりで行われている。次に土龍打ちの歌を掲げておく。()内は註釈 なれなれ柿の木(実をたくさん結べ) ならずの木をば(実を結ばない木を) なれぞというた千なれ 万なれ 億万なれ つる落ちすんな 空花咲くな 人のちぎっときゃ(人が盗みとる時は) ほい(堀)の岸いなれ(堀の中ぁなれともいう) おどんがちぎっときゃ 畑のまん中ぁなれ 去年よりゃ今年ぁ 所見がようして(見ばえがよくて) 太うして長うして ぶらぶらっとなれ 十四日のもぐら打ち
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此月流し
2月の初午講の日に少女等は糸柳の枝に大麦、かんな草および自分の髪を少し切りとって白紙に包み水引で結んで この川やこの川や広さ深さは知らねども 流るる先まで延べや黒髪 延べや黒髪 とか この川やこの川や長さ深さは知らねども 流しし先まで延べや黒髪 髪長うなれ長うなれ など唱えて流れ川の橋頭から流す風習があった。また、髪の代りに木炭を紙に包んで流し、流したらうしろを振向かないで走って家に帰るという所もあった。
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針供養
もともと12月8日と2月8日の2回していたがいつの間にか2月8日だけになった。明治のころまでは裁縫師匠の家で、この日針子たちが晴れ着で集まり五目飯などを作った。1年間使用して折れた裁縫用の針を白い豆腐にさし、淡島様の祭壇を設け、草花や菓子等を供えて針へ感謝するとともに裁縫の上達や針でけがをしないようにと祈った。この日1日は針を納め仕事を休んでいた。以前は学校でも女児だけでこの行事をし運針競技などをしていた。
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粉搗き十五日(ねはん会)
2月15日は米や麦をいって粉をひき、砂糖や干柿の皮の乾燥したものを小さく砕いて入れたり、もち米をもみのまま焼いて「米の花」とか「飯花」というものを作って混ぜた。この粉のことを「こうせん」とか「こうばし」という。井手地区あたりでは「ごうへらし」といっている。そして「つけ木」(薄い板様の木片の両端に硫黄をぬり火をたきつけるもの)を切って作ったさじですくって食べた。これはもともと仏教関係の行事で釈尊が沙羅双樹(印度原産のりゅうのうこう科の常緑喬木)の下でねはんに入寂するのを祭り、不生不滅の解脱の境を求める行事といわれ、子どもたちはこの日、おしゃべりをしないで口をつつしむようにと言い聞かされていた。
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灌仏会
4月8日は釈尊の誕生日として「甘茶とり」とか「花祭り」といっている所もある。各寺院では、すみれ、たんぽぽ、菜の花、れんげ草等春の草花できれいに飾りつけた「華堂」を作り、その前に大きなたらいを置いて甘茶を入れ、その中に「天上天下、唯我独尊」の釈尊像を立て、参拝者はお塞銭をあげ、その甘茶を釈尊像にかけて礼拝し、甘茶をもらって帰る。家族の者は全部これをいただいて病厄よりのがれるように祈るのである。また、甘茶を蚊帳に吹きかけると虫よけ、屋敷の周囲にまくとまむしよけになるといわれている。西野、平野、川上、五領、下都渡城、尼寺、屋形所、井手等では存続されている。甘茶はゆきのした科の落葉灌木であじさいに似た花をつける。華堂は摩耶夫人が無憂樹の下で釈尊を生んだという花園を形取ったものであり、甘茶はこの時九頭の竜が天から清浄な水をはいて、産湯を使わせたという伝説に基づくものである。
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さかもり(春祈祷)
4月の末ごろから5月の始めごろにかけてこの行事が行われた。普通は順番に当事者をきめて行われたが、若者組では新婚の者や長男が生まれた家が臨時に当事者になった。酒宴は2、3日から長い時は1週間にもわたる盛大なもので、打上げの日は村の主婦たちが仮装行列をし、音曲を奏し歌や踊りでにぎやかに繰り出した。また、この日地区の子どもたちには「たけのこ握り飯」を振舞うので大変な騒ぎであった。この行事は、農家ではこれからいよいよ麦刈りや田植えが始まり、1年中で最も多忙で骨折る時期でこれを「ごんがつ」といい、そのごんがつに備えるための体力作りであったらしい。もちろん、春祈祷だから昔は五穀豊穣を祈ったものだったが、いつの間にか単なる酒宴のみとなり昭和の初めごろまで続いた。今山地区では打上げの日に「しいど流し」といって川さらえをし大饗宴の幕を閉じたという。 今山地区には次のような「さかもりの唄」が歌われていた。 ○酒でさかもりやたびたびござるのー お茶でさかもりゃ今が初のー ○シャンス(相思の人)持つなら北から持ちゃれ たとえ来んてちゃきたとなる ○竹に虎とは昔のことよ 今の若衆は鍋にだらのー(料理屋で飲食する遊蕩児)
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さなぼり(早苗祭)
「さなぶり、さなぼい、さのぼり、さなぶい」ともいう。山手の地区では「おいたて」ともいっている。7月上旬ごろで本来は田の神が田植えの終了を見届けて帰り上がる日であるといわれている。農家ではいちばん骨折る田植えが終わり、無事すんだというお祝いで各家庭でご馳走を作り慰労をするものである。この日はもち米の粉であんこ入りの饅頭を作るが、その饅頭を蒸す時は、山から「まんじゅうしば」という円形の葉っぱを採ってきて饅頭の下に敷く。饅頭は近隣へも配る。また、農家の新嫁はこの日から里帰りをする所もあった。
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盆綱引き
大久保地区その他数地区で盆行事として行われていた。男の子たちが地区の各戸から「すぐりわら」なら小手3束、「しびわら」なら大手1束(小手30束分)わらのない所はそれに相当する金をもらい集め、しびわらはきれいに下葉を落し、それを直径3cmくらいに束ね直し、13日の夕方から地区の青年男子に頼んで直径20cm、長さ7、80mにも及ぶ綱を夜遅くまでかかって編んでもらった。青年たちは浴衣の肩はだを脱ぎねじり鉢巻をしめ、3人が1組になって「よいさよいさ」と掛け声をかけて編んだ。子どもたちは小束を取ってやったり、蚊を追ったりした。青年から「盆綱の毛むしりを借ってこい」といわれ、あっちこっちを走り回って借りにいくが「ありゃー、たった今まであったばってん○○さんがたぁ貸したけんそこさい行ってみろ」とか「うちのはこわれて使われんばってん○○さんのもっとんさん」などいわれ、からかわれているとも知らず無心に走り回ったものである。綱は地区の中心の道路上におかれ、子どもたちは古賀別などで二手に分かれ、太鼓の合図で一生けんめいにひいた。大人も出て応援したり子どもといっしょになってひいたりしていともなごやかな風景であった。この行事も本来は信仰に発したものであり、神意をうらなう方法の1つであった。海と里のあるような地区では海と里との二手に分かれ、海の方が勝てば豊漁、里方が勝てば豊作といったようなことからおこったという。
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灯つけ
村の鎮守の夏祭りは祗園と呼び、この行事は青年男子が担当した。鎮守の境内には守護神の外に地蔵尊、観音、大日如来、弘法大師、日蓮等いろいろの神仏がまつってあり、また地区の外れなどにも六地蔵、念仏塔、馬頭観世音等がまつってあり、これらの守護神以外の神仏の祭りは灯つけといって男児の担当であった。各戸から豆や金等を喜捨してもらい、昼間に清掃して夜参拝してもらう。参拝者には煮豆や菓子をやる。主神には「ごう菓子」といって豪華な米粉製の菓子を供えた。参拝者がすんだころを見計って大将と呼ばれる年長者宅に集まり豆や菓子等を分配して解散した。ごう菓子は大将とその下の「手下」までしかもらえなかった。神仏に供える提灯は初盆をした家からもらってきたり、地区備品のご神燈を借りてきた。
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荒神さんずもう
12月24日、村の男の子たち(主に小学生)が集って、むしろを持ちながら各戸ごとに、庭中にむしろを敷いてすもうをとって回る。各家庭では荒神さんの神棚にごっくうさん3個とお賽銭をあげておく。すもうをとり終わると子どもたちは、ごっくうさん2個とお賽銭をもらって帰る。全戸回ってしまうと1軒の家に集まり、もらったごっくうさんをおかゆにして食べる。このおかゆの中に銅貨を入れてすくった者がもらってよいことになっている。
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彦山まいり
豊前(福岡県)の英彦山に長途の参詣をするのを「彦山まいり」といった。これは3、4月ごろの農閑期に行われ、汽車を利用する者は往路田代駅で下車し、付近の景勝地または他の神社仏閣にも回礼して彦山に詣で、帰途は遠回りして汽車で帰るのが普通であった。彦山での宿泊は主として帰依の坊跡を尋ねるのを例とした。下山の際は彦山名物の飯杓子、ぞうり、土製の鈴等を買って帰り仲間に配った。この参詣のための経費作りには、権現講というものを組織し、毎年抽せんをして順次4、5名が参詣した。帰宅すれば権現講を開き、明年の参詣者の抽せんをした。彦山まいりに主人を送り出した留守家族の者はひたすら謹慎し、けがあやまちなく無事帰宅するよう仏壇に灯明をあげて祈った。土産にもらった鈴は玄関の入口の上に飾り一家の安全を祈り魔よけにした。
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三夜待
これは大和町のほとんどの地区で今も行われている。毎月の23日を中心としてその前後に参加 の家を順に当番制で集まるが、昔のような宗教的な意義はなく単なる親睦会となっている。「まち」というのは古語で「まつり」のことである。三夜待は二十三夜の尊、月読命、あるいは三日月様と呼ばれる神々をまつるということで、当事者は前の当事者から渡された三夜様の像の掛軸を床の間にかける。普通、三夜待の神は女神だから男がまつり、六夜待は男神だから女がまつるといわれている。23日の月の出を待って、地区の街道すじにある二十三夜の石碑の前にむしろを敷き、古賀うちの人が酒肴を持参して先ず神に捧げ、おさがりをいただいて四方山話に花を咲かせたという。また、一説には六夜待ができなかった場合、翌月の二十三夜に月待ちをしたので「代待」といっていたともいう。
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六夜待
男の三夜待に対して主婦たちが毎月の26日の夜、順番に当番をきめて集まる。大地区では古賀別にしているようである。これは野菜のあえものとか煮豆とかお茶菓子程度の簡単なものが普通のようである。これも本来は陰暦の正月と9月の二十六夜の月の出には弥勒三尊が現われるというので月待ちをしたことから起こったものであるが現在は親睦の程度である。一説には、この26日は怪盗石川五右衛門が生まれた日で、この日懐妊しないように主婦たちが集まり徹夜して四方山話にふけり、朝空が白みかけてから帰宅したともいう。
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お日待
毎年11月14日に行われる祭で、三夜待が月の祭であることに対してこれは太陽神に対する祭での日は太陽に休んでもらうということらしい。これは三夜待ほどのご馳走もなく、また男女の区別もなく1戸から1人出席し、酒肴はなく夕食(もとは中食)を共にし、あとは憩いの時間となったのであるが、この祭はほとんど廃れて今は見られないようである。
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彼岸ごもりと遍路
彼岸は春分と秋分の日を中心としてその前後3日間ずつ合わせて1週間をさしていう。彼岸という言葉は仏典から出たもので梵語の波羅密多の漢訳でくわしくは「到彼岸」という。つまり迷いの此の岸(現実の生死という苦悩の世界)から悟りの彼の岸(理想の涅槃の世界)にいたることである。1週間にわたる彼岸会のことで印度や中国にはなく日本独得のものである。彼岸には墓地の清掃をして墓参をする。また、餅やおはぎ、だんご等を作って親類の仏前へ供えたり、近隣へは野菜のあえ物や煮豆などを配ったりする。この彼岸中は「彼岸ごもり」といって、地区のお宮の堂などに集まり、先祖をしのび感謝するもので主として一家の主婦が出席する。各自お茶や茶菓子、野菜のあえもの等を持ち寄り四方山話をする。この彼岸中に遍路が隊を組んで地区のお宮などへ巡ってくる。遍路というのはもともと弘法大師修行の遺跡といわれる四国八十八ヶ所の霊場を祈願のため巡る人のことであるが、この四国八十八ヶ所は遠隔の地であるため行きにくいので日本のあちこちに八十八ヶ所の霊場(札所)を設け、これで代行するわけでこの辺でも佐賀郡市一帯に八十八ヶ所を定め、巡路、宿泊地を定めて行脚をしている。遍路の列は法螺貝を吹きながら地区に入ってくる。遍路は遍路笠をかぶり同行2人と墨書した白い法被をかけ、胸には八十八ヶ所に供する札箱を下げ「おぶっしょ」という袋に米を入れ、それをお賽銭代りにあげる。 参詣が終わると地区の太子講仲間の人が用意したお茶、お握り、おはぎ等の接待をしたり、マッチなどを配ったりする。最近も行われているが参列者も往年ほど多くはない。
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おとう夜
とうやは「燈夜」叉は「常夜」で9月30日の神渡し(神送り)燈夜、10月30日の神受け(迎え)燈夜、氏神に弁財天を祀ってある所では「みの日燈夜」、12月の冬至の夜の「冬至燈夜」など種々ある。夕食後鎮守のお堂等へ地区の人が集まり、お燈明を上げて祈り、お茶やお茶うけ等を持ち寄って一夜を明かす。陰暦10月は神無月といって各地の神々が縁結びの相談のため出雲に神集いされるという伝えや田の神が里へ降りてきていたが稲の収穫もすんで守護の任務が終わったので、山へ帰って山の神となるのでそれを送るためとも伝えられている。町内でも数地区存続されているが徹夜するような所は見られない。
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観音講
そもそもの起こりは法華経第八巻第二十五品の普門品の別称で、観世音菩薩の功徳・妙力を説いたお経を観音経といい、その観音経を講じる法会とか、観世音を信仰する者の講中のことを観音講といい、宗教的な行事であったが、現在存続されているのは婦女子の親睦会である。年に1、2回程度で期日も一定せず、経費を出し合い料理も自分たちの手で作り、親しい仲間ばかりだから話もはずむ。なお、女の子も観音講をしているがこれは夕食を共にする程度である。
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もーし講
地区の男児が適当な組を作って1か所に集まり経費を出し合って食事を共にする。都渡城の乙文殊宮の例祭が12月25日に行われ、この日使い古した筆を持って参詣すると、祈願をこめた新しい筆と交換してくれるので、子どもたちはそろって参拝し、帰宅後ご馳走を食べたものである。また、乙文殊宮は「もいっさん」と呼んで親しまれているが、乙文殊は文殊菩薩を本尊とする神社である。文殊は知恵を授けてくれると信ぜられ、学問の神ということから、少しでもそれにあやかろうとして始まったもののようである。
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風祭り
9月は二百十日や二百二十日といって、台風が日本に上陸し猛威を振い易い季節で、ちょうどこのころは中稲の開花期に当たるので農家の厄日とされている。そこで、この台風が避けて通ってくれるように地区の者が鎮守のお堂などに集って燈明や線香、供物をあげ、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱和して祈願をこめるもので、これは全国的な行事のようである。各家庭からお茶やお茶うけ等を持ち寄り、祈願の休みや終了後の団らんに食べる。大和町でもこの行事の存続している地区は多いが、福島、広坂、有ノ木等のようにこの日みやき町の綾部八幡へ参拝して祈願する所もある。
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大般若
大般若は「大般若波羅密多経」の略語である。「般若波羅密」とは「智慧到彼岸」ということで、この義を説いた諸教典を集成した大般若経は全部で600巻から成り、般若(智慧)よりみれば万有は吾人のみるような実有のものではなく皆空無想であるという大乗仏教の根本思想を説いたものである。凡俗にはわかりかねる教義だが、この600巻を全部地区へ運んできて、数人の僧侶が全部これを読みあげるのである。これは地区のお宮やお寺などで催され、地区人はこぞって参詣し、一人一人低頭してお経をあげてもらう。その日留守の者はその人の着物を持って行きそれにお経をあげてもらった。これはその人の健康を祈り病厄からのがれるのを念じるものである。昔100巻ずつ入った経箱を屈強の若者たちが寺から地区まで天秤棒でかついで運び、途中でおろして休むことは禁じられていたが最近はトラックで運ばれている。この大般若は毎年1月と5月の2回行われるが、法華宗と真宗では実施しない。現在も大願寺、大久保、五領、東山田など相当数の地区で行われているが往年ほどの参詣者は見られない
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百万遍
これは池上や久留間地区で行われている行事で県下でも数少ないもののひとつである。池上では毎年7月28日から8月28日までの約1か月にわたって行われるが、その間盆の3日間は休む。地区の65才以上の男女が氏神の天満宮に集まり、地区民の安全と五穀豊穣を祈願するものである。京都市にある知恩寺のことを俗に百万遍というが、この寺は僧円仁の創立と伝えられ、始め加茂明神の神宮寺で今出川にあり、一時法然が住んでいて加茂河原院とも呼ばれた。法然の弟子の源智がそのあとをついで知恩寺と改称し、以来源智門下の僧が住持していた。元弘元年(1331)8世の空円が百万遍の念仏を修めて悪疫をなおしたので、後醍醐天皇から百万遍の号を受けて勅願寺となった。寛文2年(1662)に今出川から今の京都市左京区田中門前町に移転した。毎年4月大珠数を百万遍回わす御忌回が行われている。 池上地区の百万遍は永渕喜六氏・江頭繁六民らの話によると約150年以上前から続けられているという。1人が鉦を叩き、他の人は輪になって座り、1080個の珠のついた大珠数をひざの上に捧げ持ち「なむまいだいほう」と唱えながらゆっくり回す。珠数が1回りすると今度は少し早目に回し、もう1回ゆっくり回して1区切りとなり小休止する。珠数のつぎ目の房が自分の前にくるとその房をていねいに拝む。こうして1日に3回の祈願があり、休みの時は各小路から持ち寄ったお茶やお茶うけをいただきながら四方山話に花を咲かせたり囲碁や将棋等で楽しむ。本来珠数は印度のバラモン教で使用したものを大乗仏教に取り入れたもので、中国では隋・唐以後盛んに使用され広く仏教徒の間に用いられるようになった。一般に珠の数は108個とか、その半数の54個等であるが、これは除夜の鐘と同様に108の煩悩を断つことを表わしている。大珠数も恐らくこういう意味からそれを10倍して1080個にしたものであろう。 午後5時ごろに1日の祈願を終わり、蜩の声を聞きながら家路に着く。1か月の祈願が終わると慰労会をし、来年の再会を約して解散する。 また、久留間で行われているのも趣旨は同じだが、ここは年寄りの希望者約20名が地区の天神さんに集まり、毎年7月25日の天神祭りの日から8月7日までの2週間にわたり祈願する。 中間に中仕上げといって村から西瓜などを出して慰労し、最終日は仕上げの日で夕食を共にして散会する。
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おひたち、ご来光さん、芽立ち切りほかの行事
四十坊地区では毎年5月地区行事として「おひたち」というのがある。麦刈りや田植え等いわゆる「ごんがつ」という農繁期を控えての元気付けの宴で青年男子のみが行っていた。楮原地区では毎年8月23日地区行事として「ご来光さん」というのがあり、弁財天山に登り提灯をともし、神酒をいただきながらご来光を待つというもので現在も続けられている。井手ノ口地区では毎年6月2日に地区行事として「芽立ち切り」を行っていた。これは夏山の仕事初めの儀ともいうべき行事らしい。朝早く起き出てて露を踏みながら山草を刈り、3荷ほど刈ってからあとぼた餅などで祝う。現在は地区行事としてはないが各家庭で自由に行われている。また、昭和の初期ごろまでたいていの家庭で行われていたものに「こうじ断ち」というのがある。毎月24日の朝食の際、こうじを使った食物、つまりみそしょう油などを一切使わず、梅干とかごま塩だけで朝食をすました。これは火事を出さぬよう火の神へ精進潔斎して祈願をしたものという。その他太子講、お題もっこ、真宗のお講、星祭りなど今も存続しているものも相当に多い。