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[東与賀町][ 農業]は4件登録されています。
東与賀町 農業
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農具
荒田犂(すき)、押しがんづめ、千歯(せんば)、代掻馬鍬(しろかきまぐわ)、その他 東与賀公民館には農家より寄付された農具が展示されている。
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鍛冶屋の牛蒡(ごぼう)・桑畑
鍛冶業が営まれていた頃、鍛冶屋の畑地に牛蒡を広く栽培していた。この地区で生産した牛蒡は他に比べて甘味があり柔らかくて大好評であった。これは鍛冶屋さんが捨てた鉄くずや石炭がらが土壌の成分を良くし牛蒡によい地味となったものと思われる。その当時「鍛冶屋のごぼう」といって評判がよく高く商品化され値段もよかったとの記録がある。今日でも古老の井原保美は「あの鍛冶屋ごぼうの味は舌に残って忘れられない」としきりに賞讃する。 牛蒡の外にこの地区では、桑を栽培し桑の葉の産地でもあった。この地域一帯は昔、東与賀町内でも一段と高い台地になっていて「島の内」とも呼ばれていたという。このことは郷村帳与賀下郷の中の「実久村」の中に、鍛冶屋・上町と「島の内」の名が出ている。この小高い島全体に桑の木が繁茂し、養蚕時にはその葉っぱが売却されて、相当の金額に上ったらしい。ところが本県の絹織物業が衰亡しこの養蚕がすたれた年代から鍛冶屋の桑畑も伐採され切り取られてしまった。同時に高値であった桑畑もその土壌や泥土は削りとられて、現在の佐賀市佐嘉神社前の南側駐車場の埋め立てに使われたり、近くは東与賀町内や近隣の家建築の際等の壁泥に売却されたりしたのである。
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お蔵
「お蔵」は穀倉のことで、昔上納米を貯蔵したりここから船で運んだ所であるが、船津の「お蔵」は龍造寺隆信公の頃、鷹や鴨狩りの跡とも言われている。現在の古川氏宅の西側がその地所であるらしい。即ち米・麦をはじめ肥料や粉炭等を積んだ船舶や木材をいかだにして、この「お蔵」近くまで運んで来ていた。そのためにこの船津は昔より家業の職種が非常に多かった。まず、人が集まると酒類であるが、酒屋は故大石平次(酒倉が4棟並ぶ)、炭問屋は芦原、旅館(昔の木賃宿)の力武、その他銭湯・紺屋や精米業の秀島・医院の久納等、往時より各種各様の職業が賑やかに活気づいていた。言わば東与賀村では一番の開拓村であり進歩的文化村であった。即ち精米業も東与賀では最も早く発動機利用の先端を行き、各家庭の電燈も福岡県大川市より川副町犬井道へ、それが漸次西部方面に波及して、広江そしてこの船津へと点燈されたのである。電気の世の中となって最初に恩恵を受けたのが船津であり、一番遅く灯ったのは大野村であるが、それは大正5年の頃であった。まさにこの船津は、天恵の八田江によって生まれ発展した郷土東与賀の発祥の地ともいうべきであろう。
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大授の農業
干拓が完成して大授搦ができたが、真直ぐに水稲を栽培することはできなかった。2、3年から4、5年間は綿(わた)作りから始めた。この綿花は毎年八十八夜前後に種子を蒔き、夏休みの頃は早くも収穫するのである。手ぼに綿を一ぱい盛って帰り、家の中では、寝床にも座敷にも広げて乾燥したことが思い出される。 その綿花作りの後2年から3年間は、西瓜作りであった。その頃第二区に掛け小屋を作り精一ぱい努力した。幸いにも干拓は塩分が多いので西瓜は味がよく調和して、甘味の強い西瓜ができた。この甘い西瓜が好評を博して、佐賀市をはじめ船津方面の丸山問屋には売行きは上位であった。ただ当時は現在のように自動車はなく、ほとんどがリヤカーや車力で運搬したものである。それでも後には佐賀市辺りからの商人たちは好評の干拓西瓜を大量に買占めに来るという盛況であった。