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[東与賀町][ 河川・水路]は3件登録されています。
東与賀町 河川・水路
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水げんか
下飯盛とその南方に存在する中村や住吉、特に最南部に位置する大野とは堀水の流通問題で、たびたび争って喧嘩が繰り返された。堀水の流れる分岐点は、この村落の南部に懸った三つ橋で、この三つ橋(流れが非常に速い)を中心にして、昭和15年頃から40年にかけ毎年水喧嘩が続いた。 当時の故山田八郎村長の頃が一番ひどく大野の故横尾半次外有志の方々に随分と世話をかけた。その頃の農民としては、一番切実な問題はこの用水問題であり、堀・クリークの上流と下流に住む村落民の間に水利上の相反目は当然でもあった。そのために村役場としても相当の予算を組んで、堀の川さらえを各村落に奨励したが、年々と村内の堀・クリークは狭められ埋まっていった。しかしこの河川による水喧嘩も、水田に灌漑用の電気ポンプが完成以来完全に解消されて嬉しい限りである。この毎年毎年しかも何十年も続いた「水喧嘩」も時代と共に消え失せ、ただ想い出深い昔語りとして残るのみとなった。
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大授の水問題
大授の村落で一番の問題点と困難点は水利と水害で、井戸・水道・干魃(かんばつ)対策等の水に関する諸問題である。昭和15・6年度は、約1か月半も降雨がなく大干魃に遭遇した。水田の水稲はじめ畑の野菜は枯れて、花も咲かず穂も出なかった。毎日の暮しには井戸水を使用したが、それもなかなか苦しかった。昭和5年頃は第一区に、昭和8年には第三区に1個ずつの深井戸を掘って、幾ばくかの生活水を得たが、充分に満足せず六軒堀や住吉井樋を利用しなければならなかった。 こうした日照りや干魃のために、上地区とは水争いが絶えず、東与賀町に幹線水路ができるまで争った。一番水で困ったのは、水田における苗代の時で、とうとう干魃のために畑苗ですました年も何回もあった。天水といって、雨天時の貯め水をやったが、大授地区全域の生活の支えには到底充分とはならなかった。この干魃に対してその逆の大水害もひどかった。昭和28年西九州一帯を襲った集中豪雨のため約1週間から15日間も水田は1m以上の水浸しとなった。水害ともなると、上流の東与賀町全域にわたる水量がこの大搦地域に押し寄せるのである。そのために町の北部は水が引いても、この村落はいつまでも水量が残り最後になってから有明海に流出するのである。
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水鳥の大授搦
有明海は干満の差が大きい干潟であるので、鳥の餌が豊富で水鳥はここに集中してくる。全国でも屈指の水鳥の生息地である。特に大授搦は有明海でも種類の多いこと、水鳥の群が多いことは最高の地域である。4.000羽の水鳥がいるのは全く壮観の一語に尽きる。それで遠方から水鳥を探ねて来る人はまずここへ直行する。天然記念物(大正12年指定)のカササギが全国で有名であると同様に、水鳥についてもこの地は有名である。 この有明海の水鳥たちは、その豊富な餌を自分の好みに応じて思い思いに食べている。この餌場の面積の広いことも全国では稀である。また水鳥の特色として、夏羽と冬羽は違っていわゆる衣替えをする。そのために見分けるのに難しさがあり、また面白さもあり、それに雌雄の違いもあって実に興味深い。 水鳥は春から初夏(4・5・6月)と秋は9月・10月と干潟に集まる。高潮の時は岸壁近くまで潮に押されて来た水鳥が、次々に水を蹴って飛び立ち、空中で乱舞する大群の光景は実に素晴らしい。この地先で一番多いのは「鴫」類で、その種類も羽数も圧倒的、次いで「ダイゼン」や「千鳥」である。特に調査表に出ていない「鴨」の大群は、毎年10月中旬から翌年3月上旬までこの地先に数万羽も渡って来て越冬する。九州では鹿児島県出水の「ツル」が有名だが、この地先の水鳥の種類の多いことと、餌場の広いことは、観光客や愛鳥家の眼を見張らせるものがある。平素は単調平凡な干潟も、この季節になると実に絶妙壮観で、野趣とロマンの色彩に包まれる。水鳥にすれば絶好の母なる海岸であって、この大授搦はたしかに「野鳥の楽園」としても、「観光有明海」としても将来を期待される。