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[大和町][ 人物]は10件登録されています。
大和町 人物
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成富兵庫茂安の功績
封建社会の基盤は農業であったので、幕府を始めとして大名も武士も農業を大切にし、水利事業等には特に力を注ぎ、今日までその恩恵を受けているものも沢山ある。その1つに石井樋がある。佐賀藩では成富兵庫茂安が中心となって治水土木の事業を完成した。茂安は永禄3年(1560)に鍋島町増田に生まれ、幼名を千代師丸又は新九郎と言い、のち信安、中ごろ十右衛門といった。茂安が11歳の時、大友勢8万といわれる大軍がわずか数1000の佐賀城を包囲し、まさに孤城落日を思わせるように切迫していた。茂安の父信種は直茂に従い、今山夜襲軍に加わることになった。茂安は父が止めるのも聞かず、戦争見物に出かけている。隆信はあとでこのことを聞き、彼の豪胆に驚きかつ感銘し、直ちに小姓に召し抱えた。茂安が17歳の天正4年(1576)藤津郡横沢城攻めに参戦したのが初陣である。 彼は龍造寺隆信についで政家・鍋島直茂・勝茂父子に仕え、直茂の「茂」の一字を授けられ茂安と改め兵庫助と称した。肥後の加藤清正を始め豊臣秀吉、徳川家康にも愛され、特に清正より1万石の知行をもって誘われる程であった。茂安は治水に非凡であるばかりでなく、築城にも秀で熊本城、大阪城、名古屋城、江戸城等にも携わるなど、名将でかつ民政家で、しかも治山治水、干拓土工の技術家として歴史上大きな業績を残した。茂安の行った治水工事は千栗土居(千栗堤)、石井樋、多布施川、牛津水道など20余か所で、千栗土居は筑後川の氾濫を防ぐために12年の歳月を費して設けられた延12㎞に及ぶ大防壁であり、これで大氾濫による大被害を最小限度にくい止めた。そこで千栗近郊の人々は村の名を「茂安村」として、その功績を永遠に残した。 又佐賀市付近は、古くから治水工事が不完全で水害・干害が多かったので、多布施川を築造し、川上川からの分岐点に大きな石閘を設けることによって、水利の便を計ろうとしたのが石井樋の始まりである。 今ここを訪れると「成富君水功之碑」が建てられている。この碑は武富時敏が明治21年(1888)ごろ、 若くして佐賀郡長の職にあった時、有志と相計り水功碑を建設しようと尽力し、その後任郡長の横尾純喬が完成したものである。この碑面の題字は副島種臣の書で、碑文は文科大学(東大)教授久米邦武の撰になり、書は武富誠修である。 又各地の山麓に溜池を築造配置し、放水量の調節に尺八(尺八のような穴の井樋)というものを作ったのも茂安の発案で、当時としては驚嘆すべき発想であった。その他疎水工事によって荒野を開墾させ美田のもとを作り、藩祖鍋島直茂公をして諸大名中の治国第一の名君と言わしめたのも、実に茂安の功績であったのである。佐賀市兵庫町も当時沢であったのを開拓させると共に、水路を開発して沃田となした。兵庫村の名は茂安の徳を慕って付けたものである。
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深江信溪
佐賀藩士深江信溪は元和6年(1620)神埼に生まれ、名を安玄、通称平兵衛杢助、入道して信溪と号した。鍋島清久の長男清泰の曽孫に当たる初代三反田代官茂利の二男で、長男宗英は2代三反田代官を継ぎ、信溪は後に深江氏の養子となった。
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石田一鼎と下田
一鼎は名を宣之と言い通称安左衛門と称した。平氏の流れを汲む家柄で、三浦為久が木曽義仲征討に加わって戦功を立て、壱岐国石田郡石田邑を領して石田次郎又は壱岐判官といったのが石田氏を名乗った初めである。為久の子孫為奉が肥前国松浦に移り住み、その子孫為宣は龍造寺隆信の殊遇を受け、後に佐賀の多布施に住んだ。一鼎は寛永6年(1629)ここで生まれた。 幼名を兵三郎と称し、学問が好きで15、6歳のころ仏教・儒教の書を広く閲読していたと言われ、17歳にして藩主に「大学」を講義するほどで、当時では佐賀藩第1の学者と言われていた。藩主勝茂の近侍を勤めたが、勝茂の死後はその遺命によって2代藩主光茂の相談役として輔佐の任に当たった。 寛文2年(1662)33歳の時、私利に走る一老臣を列座の中で罵ったこともあって、藩主光茂の怒りを受け、小城藩主鍋島直能に預けられ、松浦郡山代郷(伊万里市山代町)に流された。ここに幽居すること7年余り、寛文9年(1669)に許されて佐賀に帰ったが、間もなく川上村平野に行き、後、大工坂口某を連れて梅野の下田に移り閑居した。延宝5年(1677)48歳で髪を下し一鼎と改め、下田処士、願溪愚璞と号した。 下田での一鼎の生活は単なる閑居の悠々自適ではなく、忍苦の毎日であり厳しい修行であったと言われている。時には一鼎を慕い閑居を訪れて教えを受ける者もあり、山本常朝もその1人であった。又ある日弟子が台所に行くと、釜の中には蜘妹が巣をはっていたので不審に思い、「いつ食事を取られたか」と尋ね、更に夜具もないのを怪しんでいると、「怪しむなかれ、ここは山中だ。果実もあれば野菜もある、釜を用いる要なし。夜具としては茅類が簇生しているので蒲団の要を見ず」といった。又弟子の下村三郎兵衛にも「寝られぬ時には寝ず、寝られる時に寝る、食われぬ時には食わず、食われる時に食う」といっている。「永々の浪人にて、酒などもまいるまじく」と尋ねたら一鼎は「山中にて見たこともなし。それよりは飯もなし、麦・そば・ひえなどを釜に入れ置き、望みの時に食べ申し候。汁も食べたことなし」と答えたそうである。 このような忍苦に堪えた一鼎であればこそ、山本常朝に対しての戒めの言葉に 「一鼎申されけるは、よき事をするとは何事ぞというに、一口にいえば苦痛さこらふる事なり、苦をこらえぬは皆悪しきなり。」とある。剛直一徹の一鼎は下田閑居によって磨かれ幅のある人柄、極貧の中にあっても窮乏を楽しむ境地を開いた。「上長を敬うのは礼であって、その礼を守らないのは道に外れる」とか、「世の中には頭の働きの早くない人もある。その人が埒があかぬといってあせり、横からその仕事に手出して裁こうとするのは必ず外れる。なぜならば人が立てた計画の中で他の者が自在に働けるものでないからである。」とも言っている。 一鼎は佐賀武士道の開祖ともいうべき人で、郷土の下田で書いた「武士道要鑑抄」は葉隠の先駆をなすもので、葉隠は武士道要鑑抄の説明書と言われるのもそのためである。要鑑抄の中に 「士の意地(面目)を失はしむるは皆敵なり。その敵には六種あり。一には睡眠、二には酒食、三には好色、四には利慾、五には高貴、六には功名。この六種は外の敵なれば防ぎ易し。外の敵を見る時内の敵起り、内の敵起る時誓願の剣をもってこれを断てば、内の敵起ることなし。内外敵なくして主人の御用に立つことが出来る。」 と述べている。時代は違ってもその精神は今の時代にも生きる尊いものではなかろうか。一鼎は下田に閑居すること24年間、元禄6年(1693)の12月21日(新暦翌年1月16日)年46歳で死去したが、墓は下田と佐賀市与賀町精水月庵とにあり、下田の庵跡にある苔むした自然石の墓石には「梅山一鼎処士、圓室貞因大姉」と刻まれ、夫婦が祀られていて、付近の人々はこの祠を「一鼎さん」と呼び、「勉強の神様」として尊んでいる。国道端には肥前史談会の標柱が建っていて、道行く人々に何事かを呼びかけているようである。大正4年(1915)11月10日大正天皇の即位の御大礼に当たり、佐賀藩武士道の興隆に尽くした功を追賞されて正五位を贈られた。
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山本常朝と大小隈
常朝は佐賀藩士山本神右衛門重澄70歳の時の子で、万治2年(1659)6月11日佐賀城下片田江横小路に生まれた。9歳で2代藩主光茂の御側付小僧となり、延宝7年(1679)元服して権之允と改称し、その後御書物役に進んだ。20歳のころから仏道に志し、当時佐賀藩第一の碩学石田一鼎を下田の閑居に訪れて薫陶を受け、更に松瀬の華蔵庵で湛然和尚の教えを受けた。元禄13年(1700)5月光茂が死んだのでその寵遇に感動していた常朝は追腹をしたい気特で一杯だったが、主君の追腹禁止令を犯すことはできず、殉死の志を満ししかも藩令に背かない出家の道を選び、金立の黒土原に閑居した。田代又左衛門陣基は延宝6年(1678)に生まれ源七と称したが、後光茂に仕え祐筆役となり、元禄9年(1696)19歳の時藩主綱茂の祐筆役にもなったが、宝永6年(1709)32歳で御役を免ぜられた。翌年3月始めて常朝を黒土原の草庵に訪れた。その時常朝はすでにここでの生活が10年経っていて、これから享保元年(1716)まで前後7年間にわたって陣基は常朝の談話を筆記し、享保元年9月に脱稿したものが「葉隠」である。7ヵ年の前半は黒土原の宗寿庵で、後半は大和町大小隈で筆記している。常朝は9歳より光茂逝去まで側近に仕えること30余年の間、常に「我一人にて御家を荷う」という葉隠の精神で忠誠を尽くし、神仏を信仰することも厚く、国学や武芸にも達し、和歌・俳句にも堪能であり「愚見集」を書いて奉公の心得を諭した。光茂夫人霊寿院は黒土原(金立町)で夫君の菩提を弔い、正徳3年(1713)ここで逝去した。その遺志によってこの地に葬られたので、常朝はその墓所をはばかって、同年10月13日大和町大小隈に庵を移し、享保4年(1719)10月10日61歳でここに歿した。この辞世の句に 尋ね入る深山のおくの奥よりも しづかなるべき 苔の下庵 虫の音の よわりはてぬるとばかりを かねてはよそに 聞きて過ぎしが とあり、墓は佐賀市鍋島町八戸の龍雲寺にある。田代陣基は葉隠を脱稿した後再び祐筆役となり、寛延元年(1748)に年70歳で歿した。陣基の墓は佐賀市東田代町の瑞龍庵にある。 大小隈は今日通称「でゃーしょうぐま」と呼ばれていて、敷山神社跡より東北約300m余り、 大和町礫石の古川八太郎氏宅北方の柑橘園で、東を流れる小川(金立町との境)の傍らの柿の木も、庵跡に建っていた付け木(薄い板の両端に硫黄を塗り付け火をたきつける物)工場も、硫黄を砕いたと思われる水車も今はなくなって一面の密柑畑と化しているが、東に迫るような雑木山と清らかな小川のせせらぎは昔の面影をしのばせるものがある。
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安住勘助と芦刈水道
安住勘助は「道古」という名で知られ、今でも土地の人は「どうこさん」といっている。小城藩士でその先祖は安住石見守秀能といい、秀能の妻の於レンは鍋島直茂の姉に当たる人である。勘助の父清右衛門は小城藩祖元茂に仕え、佐保川島郷池上村に住んでいて、田36町に禄高60石をもらっていた。 勘助は小城2代藩主直能の時、芦刈方面数千石分が水利に乏しく耕作に困っている様子を見て、何とかして川上川の水を引き入れようと思い、先ず川上川の流水の方向を調べようと、深夜ひそかに川上川に泳いで調べること七夜に及んだといわれている。やっと自信を得て、藩主直能に進言し、その命を受けて当時としては思いも及ばぬ立派な芦刈水道を完成させることができた。すなわち、現在の官人橋の下流約50mの所(淀姫神社石段の東側)より分水し、川上地区を横断して三日月町、牛津町を経て芦刈町に及ぶ約12kmの灌漑用の水路を作った。これが芦刈水道である。その一部は吉富地区の戸立によって南に分水し、東芦刈水道となって芦刈町に及んでいる。本流の芦刈水道は途中で幾つもの河川を横断するので、この交差については特に苦労したと思われ、小城祗園川と交わる所では底井樋を架して水を越えさせ、牛津の道路には石井樋を設けた。これが今日の乙女井樋で、この傍らの悪水吐が友田井樋である。こうした井樋の工夫は今日もなお土工の範とされ、この芦刈水道の完成によって恩恵にあずかる農家は生気を取戻し地域発展のもととなった。 この芦刈水道の建設者に就いては「大楠風」「偉人成富兵庫」「成富兵庫を語る」等によると成富兵庫茂安であるとあり、明治13年(1880)7月、長崎県よりの河上川等についての問答書にも、 『芦刈方面及び新田等の作水の乏しきため、寛永の始(1624)成富茂安これをなすという。この井樋の水上河上宿の桜馬場の辺りより井樋口下まで河中に細長き島があって分水していた。この島も成富創業以前は無かったという。延宝の頃(1673−1681)蔵人頭(御勘定奉行の職)多久兵庫安胤は分水上一の杭、二の杭など建て井樋口の川浚えをしていた。』 とあるが「直能公御年譜」附録や土地の人々の伝承では安住勘助の仕事ということになっている。 「直能公御年譜」附録には次のように記してある。 『直能公御代、御領分芦刈数千石の所、水少なく候て、耕作難儀候に付き、安住勘助存立にて川上河より水道を掘り申すべくと、水上より夜なく游ぎ、流れを試み候こと七夜ほどにして、水行を考へ今の水分けの所より水道を掘り候へば、芦刈に水懸り不足これなきと積り置き候由、佐賀の方へ下り候地形は少々高くこれあり、小城の方へ低くこれあり候に付き、佐賀役々申談じ、佐賀へ七部通り、小城には三部通り定めこれあり、右の通に候へば、芦刈の水不足これなく、其上は用なしとの積り也、其後勘助頭取にて只今の芦刈水道を掘申候、しかるところ元禄13年頃、佐賀の方より石荒籠を入れ候に付き、小城の水行細く相成候故、川口取合始まり、宝永・享保・元文の頃に至っても色々取合むつかしく相成候へ共、近世淀女ケ渕の上なる石荒籠出来候より、却て小城の方への水行に障これなく、川口取合の論も相止み候也。』 勘助は貞享元年(1684)6月9日死去したが「……烏の為に害せられて死去す……」とあり、一般には「道古さんは烏の為につつき殺された」といわれている。これは芦刈水道を開くことが、本藩と小城藩との間に問題化して、本藩の圧力で担当者安住勘助が普通の死に方をしなかったということであろうか。勘助の子孫はこの後浪人させられたという。墓は佐賀市田代2丁目の瑞龍庵にある。墓碑には俗名安住閑介、一寧道古居士、正円良貞大姉 貞享元甲子年六月九日とある。
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横尾紫洋(志士)
尼寺の春日小学校西側長谷寺に横尾紫洋の墓があり、 「横尾紫洋先生之墓、先生名は道符字は孟篆姓横尾氏號紫洋通称文輔、享保十九年季甲寅十月十日生、天明四年甲辰十月二十一日卒、春穐五十有一」 と彫ってある。紫洋は川久保にいた神代氏の家臣で、通称を文輔と呼び、磊落で気節に富んだ勤王家であった。幼少のころ、春日山高城寺の住職について読書の道を学び、後に長門の国の瀧鶴台の門に入って勉学し、立派な儒者となった。当時の皇室は非常に衰微していたので紫洋は何とかして盛んにしたいと思い、有志の者と計ってひそかに計画を立てていたが、幕府の勢が強くついに佐賀へ逃げ帰り春日山に居を構えた。 勤王の大志を抱ぐ紫洋は子弟の教育こそその本をなすものであると考え、子弟を集めて忠君の大義を鼓吹していたが、安永3年(1774)6月、再度藩を脱出して京都に上り、関白九條公から手厚い待遇を受けることとなり、間もなく公の侍講となった。 ある時、日光の東照宮に参ったが、たまたま徳川将軍の参拝の行列に出合い、その盛大なのに驚き、かつ憤慨して京都に帰った。そのころ京都は大風雨があり、鴨川の水が氾濫して公卿の邸宅はほとんど破壊されていたが、幕府はこれを傍観して顧みなかった。紫洋は怒って何事かをなさんとしたが、藩は心配して帰国命令を出した。しかし紫洋はこの帰国命令に服しなかったので、捕われて佐賀へ護送され、小城郡芦刈村(現芦刈町)永明寺に幽閉された。ここで1年有余を過したが、脱藩の罪名のもとに天明4年(1784)10月21日、この永明寺で斬罪に処せられた。年51歳であった。当時この哀れな最後を惜しまぬ者は無かったといわれ、大和町内の勤王家は尼寺長谷寺に墓を建ててその死を弔ったのである。わが国の俗謡の中の傑作と言われ、全国的に知られ親しまれている次の歌は春日山高城寺にいた時の紫洋の作である。 「高い山から 谷底見れば 瓜や茄子の 花盛り」 これは友人であり、儒学者であった古賀精里が幕府に仕えて、自己の栄達を欲したことを嘲笑して作ったものと言われ、高い山に立ってみると、瓜や茄子のような卑しい人間がおごりたかぶっている情ない世の中だと皮肉ったものであろう。 紫洋の人格は営利栄達を目指すことなく確固たるもので、勤王の精神に徹した人であったという。大正13年(1924)2月11日特旨をもって正五位を追贈され、その忠誠を賞せられた。ついで大正15年(1926)には有志の人々により「横尾紫洋先生之碑」が芦刈町水明寺境内に建てられた。紫洋が春日山で子弟の教育に当たっていたころ、福島村妙見社鳥居の額を書いたと言われ、その額は紫洋が斬罪に処せられたため、藩公をはばかりこれを取り除いたと伝えられている。その額は現在同社に掲げられている。
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今泉蟹守(歌人)
梅のやま 月たちのぼれ 河上の やなせに落つる 鮎の数見む この歌は佐賀が生んだ歌人今泉蟹守が川上峡をよんだもので傑作の一つである。 蟹守は文政元年(1818)に佐賀市与賀町に生まれ、名を則才、通称を隼太後に御蒼生と改めた。 又鞆の屋、黎樹園、朏隣居等の別号があり、和漢の学に通じ、歌道には特に秀で佐賀における歌仙と称せられた。蟹守は勤王の志が厚く「勤王百首」を詠んで、その燃ゆるがごとき精神を歌に托したので、若い有為な青年達が続々とつめかけて教えを受けたといわれている。著書も多く、樟葉十家歌集、白縫集、鳳鳴和歌集、明倫百人一首、樟葉百家選等がその主なるものである。晩年は大和町の大願寺と佐賀市高木瀬町長瀬とに居住し、明治31年(1898)2月7日に大願寺で死去した。年81歳であった。大願寺西部高段墓地に蟹守とその妻イソ子の墓があり、川上の実相院には弟子達が師を慕って建てた碑がある。なお佐賀市高木瀬町長瀬源太松の南側にも墓が建てられている(※)。 蟹守の直孫、今泉大成氏は、佐賀大学教授中原勇夫氏監修による「今泉蟹守歌集」を昭和46年(1971)に発行された。 ※『佐賀郡誌』(私立佐賀郡教育会編、大正5年)には「晩年長瀬村大願寺村にて住居せられしが、明治三十一年二月七日大願寺村に没せらる。年は八十一。墓は同村源太松の南側にあり。」とあり、源太松は長瀬村ではなく大願寺村のことである。
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永山貞武(国学者)
名は貞武、一名は普、字は徳夫通称を十兵衛と称し、後に寛助と改め宇亭又は二水と号した。幼少のころより藩学で勉強したが、その努力振りは他に比べる者がなかったといわれている。22歳の時に肥後の国に行き、辛島塩井の塾に入って5年間勉学に努力し、立派な学者になって佐賀へ帰ってきた。それから間もなく「国学指南」に任ぜられ、文政12年(1829)には外小姓兼侍講に任ぜられたがその時28歳であった。その後閑叟公が藩主となった直後「奥小姓兼教諭」に任ぜられ、側目付に昇進した。天保11年(1840)に藩主閑叟公と江戸に上り、ついでに東北の諸地方を巡覧して帰り、「庚子遊草」という本を著した。天保13年には手明槍頭兼請役相談役格に進み、天保14年に御側頭となり、閑叟公のために精励恪勤よくその誠を尽くした。その後病気になり辞職隠退を願い出たが許されず、弘化2年(1845)7月30日(新暦9月1日)在職のまま死去した。年44歳の若さであったので誰一人として惜しまぬ者はなかった。惜しい人物を失った閑叟公は、翌年8月哀詞を贈り、供養の費用を支給すると共に禄高も増加した。閑叟公は長い間の弊害が続いた跡を継ぎ、その上本城が火災にかかり、飢饉も度々来て極度に財政困難に陥ったが、藩主となってから10年もたたない間に紀綱は整い、風俗は一変して官制の改革、軍事拡張、学校増設、農政整備等、藩の面目を一新するに至ったのも、貞武の企画経営に待つところが多かった。貞武は又己を持することは厳格で人には寛大であり、家のことはできるだけ簡にし、事務の処理は実に敏捷であった。大事にあえば沈着冷静に事に当たり、小事といえども軽々しく看過することがなかった。加うるに精力絶倫で常に学問の渕源を究めようと努力した。初め朱子学を学び、後考えるところがあって陽明学も兼修した。常に我が国の儒者が世間の事情にうとく社会の役に立っていないことを慨嘆し、熊沢蕃山を手本として身を修め、実用を第一として無用の学問を捨て、簡易を尊び、形式的な面倒臭い手続き等を避けるよう心を砕いた。貞武の文章は文章辞句が明切で有用の言が多く、又時にはしまりのない気ままな慷慨の文を作って読者を激昂奮起させるようなこともあった。天保7年(1836)川崎駅で一橋家の家臣が不敬な事件を起こした時、閑叟公は貞武を江戸にやって密旨を伝えさせた。貞武は慨然として出発の途につき神奈川を過ぎる時一詩を作った。 既将一死付鴻毛 乗月吟遇金水涛 料理機宜諸老在 腰間笑撫菊池刀 貞武は又体力が衆に抜きんでてすぐれており、時に馬にむちうち剣道に励み、威風堂々、気高く雄々しく自からよく節操を守った。平素は大変貧しかったが、武器は精一ぱいの力を出して買い求めていたという。墓は実相院裏の墓地にあって貞武の業蹟を刻んでいる。碑文は幕府昌平学校教授佐藤担、筆者は閑叟公に殉死した古川松根である。子孫は現在鎌倉市に在住されている。-佐賀先哲叢話-
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大木喬任と山屋敷
大和町大字久池井字春日の浦田に山屋敷という所がある。明治維新の大功労者大木喬任が少壮のころ公務の余暇あるごとにここに来て静かに勉学したと言われている。当時の家屋は8畳2間で、1間は南方に一段高く突出ており、奥に6畳1間と物置があり、玄関わきに炊事場があるという間取りであった。周囲は竹やぶになっていて、ここから眺めると佐賀市はもとより有明海方面から遠く多良の山々も望むことができるという絶景の地である。 正二位勲一等伯爵大木喬任は天保2年(1831)佐賀市赤松町に生まれ、幼名を幡六と言い、後に民平と改めた。幕末には佐賀勤王党として副島種臣・江藤新平・大隈重信らと東奔西走し、版籍奉還には特に功労があった。明治になってからは東京府知事を初め、新政府の要人として活躍し、その後元老院議長、司法大臣、文部大臣などを歴任したが、特に司法大臣としては令名が高かった。伯は又江戸遷都の主唱者の1人であり、東京遷都決定に至る功労者であった。葉隠の雫に『大木喬任は事務をとるに、常に熱心で少しもなまけることがなかったから、岩倉公や閑叟公から大変に重んぜられていた。初め閑叟公に御伴して京都に出かけた時、南白(江藤新平)らと共に時事を慨し、連署して岩倉公に上書し、江戸を東京と改め、速かに遷都せられて治国の基礎を堅くせられんことを願った。 岩倉公はこれを喜んだ。しかし、そのころは幕府争乱のために、まだ江戸は鎮定しておらなかった。廟議(朝廷又は政府の評議)もまちまちで決定することができず、月日を過して時機を失わんとしたのである。大木はたいそうこれを心配していた。たまたま木戸孝允が長崎から帰って来たので、岩倉公は大木と木戸とに遷都のことを相談せしめた。木戸もその策を聞いて、大いに賛同し異議あるものを排斥した。これから両人は東西に奔走して、ついに遷都に決定したのである。明治元年(1868)9月21日には、文武の百官を随えさせられて、東京に行幸あらせ給う様になった。』(以上要約) と、東京遷都への大木喬任の努力が記されている。 大木喬任は明治32年(1899)6月、年69歳で亡くなったが、その時に臨み桐花大綬章を賜わった。昭和2年(1927)になって、喬任を慕う有志の努力によって、旧宅跡である佐賀市水ケ江(龍谷高校南東、現南水会館)にその記念碑が建設され、今日もなお喬任の偉大なる功績を伝えている。 春日の山屋敷のあった所は、現在谷口米男氏の宅地内で、大木伯記念会より「大木伯書斎跡 昭和九年六月吉日」と記銘した石柱が建てられている。
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古川松根
春日御墓所は正面に閑叟公と直大公の墓が並び、その後方に小さな同形の墓があり、これには「古川與一松根之墓 明治四年辛未正月二十一日卒」と刻み込まれている。その背面には辞世と横書きされた下に、 君ひとり のこしまつりて ふる里へ かへる心の あらばこそあらめ 今はとて いそぐや終の旅衣 たちおくるべき わが身ならねば とあり、この主を思う純忠の心がうかがえる。 松根はこの句を残して殉死したのである。 松根は幼名を英次、後に與一と言い文化10年(1813)10月江戸桜田の鍋島邸で生れた。 その翌年12月に同じ邸内で閑叟公が生れたので、幼少より閑叟公の遊び相手として成長し、その寵愛は老いに至るまで続いた。 閑叟公が極度の節約を宣言し、自らこれを励行し、時には堪え難い苦痛もあったに相違ないが、それを多芸万能の松根は誠心誠意公を補佐し、諸調度品の整え方、庭造りの意匠まで天才的手腕を発揮して川上の十可亭や神野のお茶屋等簡素な中にも意義あるものを造り出した。この松根の誠は常に公にも通じていたので、公が神野の茶屋でた折った菊を帰りに松根のもとに和歌を添えてやり、それには 君ならで 誰にか見せん 吾がやどの 垣根にさける 白菊の花 とあり、詠草に「松根のもとに立ちよりて」とまで記しているのを見ても、公は松根に対して破格の取り扱いをしていたことがうかがわれる。 又狩りに伴をした時松根が過って落馬したら、公はひらりととびおりて抱き起し「いかが致した」と付近の民家に抱き連れて行って看護した。松根は「勿体ない、何とぞお見過し遊ばすよう」といったが、「その方と余とは、竹馬の友じゃもの、ここで君臣なんかと隔ててもらっては、かえって迷惑致す」といって看護したそうである。松根はこの落馬の傷あとを「殿様の御恩情の記念」といって、一身を常に公に捧げたといわれている。 明治4年(1871)1月21日、閑叟公の御墓誌銅牌に心魂を傾けて書いた墨汁の残りで、前掲の辞世の和歌と遺言と依頼状を書き、東京麹町永田町の閑叟公終焉の館内にあった舎宅の床の前に端座して、殉死を遂げたのである。