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[大和町][ 地名・とおり名]は18件登録されています。
大和町 地名・とおり名
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国分の館通り
国分僧寺跡の西側を南北に通る道路を「館通り」という。肥前国以外の国によっては国司館、御館、御所という地名が残り、国司の官舎があったことがわかる。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、国分寺の地頭であった国分季永、同季俊、忠俊、季高、彦次郎らの居館跡であったと思われる。忠俊は高城寺を建て季高は玉林寺や印鑰社を建てた地頭である。
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納所、佐熊
印鑰社前より尼寺西町に通ずる旧道西方一帯を納所と言っている。 納所は国府に納めた米穀その他の貢粗を収納する倉庫が建っていた場所と言われている。その北方約500mの地「佐熊」は「散米」が語原で納所に納める米がこぼれ散ったことによるといわれている。又一説には、当時惣社に供えた賽米が散布していた所だったから「散米」を「佐熊」に転化したとも言われている。
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久池井
昔は「朽井」と書いた。正嘉元年(1257)上佐嘉一帯の領主高木氏に代って、国分次郎忠俊が朽井の地頭職になってから、その子国分季高(法名順光)もまた国分寺、朽井村の地頭職になっている。旧春日村は彼らの支配下であった。江戸初期の正保2年(1645)に作られた郷村帳には久池井村の地名で書かれている。久池井は奈良時代以降、肥前国を治める国府の正庁が置かれた地区内でもあった。
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城崎
昔は「木佐岐」といって佐嘉郡六郷の一つ城崎郷であった。ここに国分忠俊(法名尊光)が尊光城(館)を構えていた。今の城徳寺はその跡だという。寺の境内に弓塚という小丘があり、これが昔の的場だったともいわれているが判明しない。忠俊は又春日に尊光寺を建てている。今は廃寺となっているが塚原司氏宅がその跡といわれ、今もなおここの地名を尊光寺と呼んでいる。前隈山の麓である。
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鍵尼
鑰山とも言い、鑰尼信濃守国分季高の居城跡といわれている。
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春日・東山田・西山田
今からおよそ1400年以上前、皇后に皇子が生まれないときは、皇后の名を残すため「女代田」という御料地をおいて、その収穫物を納める屯倉(朝廷直轄の倉庫等)を設ける習わしがあった。安閑天皇の皇后春日山田皇女に皇子がなかったので御料地を春日村に置いた。その皇女の名をとって春日、山田の地という説がある。又一説にはこの屯倉は熊本県託間郡三宅にあったともいうが、今のところ春日村内に「屯倉」の跡とされるものは見つかっていない。 高城寺の後ろの山は昔甘(神)奈備山といったのが、後世春日山というようになった。それは春日明神垂跡の霊地から来た名で、高城寺の山号を春日山というのもそれによると高城寺記に書かれている。 甘奈備城主高木氏は藤原氏の末孫で、藤原氏の祖神は春日明神(たけみかづちの神、いわひぬしの神あめのこやねのみこと、ひめ神)であるから、この山頂に、あめのこやねのみことを祭神として甘南比社が建てられた。春日の地名も恐らく春日明神の春日をとったのではなかろうか。 「山田」の地名は、和名抄に「佐嘉郡山田郷」とあり、鎌倉期に鋳造した健福寺の銅鐘にも「佐嘉郡山田西郷」と書かれている。肥前風土記には「佐嘉郡の西に佐嘉川があり………土蜘昧大山田女、狭山田女の二女………」とあり、山田に住んでいた姉妹のことで奈良時代以前に山田の地名があったようである。
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川上
肥前風土記に「山の川上に荒神あり、往来の人、なかば生きなかば殺さる………」とあり、川の上流ということであろう。明治22年市町村実施のとき、川上村を名護屋村とする説もあったらしい。
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上戸田・下戸田
上戸田天満宮の鳥居に「富田村」とある。この鳥居は文政4年(1821)の建立である。富田と書いて「トダ」と読んでいたであろう。上、下に分かれたのはいつからかわからない。
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都渡城
都渡城は昔「都人来」と書いたといわれるが、都人来と記した書き物はまだ見当らない。約360 年前にできた葉隠聞書の中には「都渡城」の文字があり、天明5年(1785)の絵図にも都渡城と書いてある。久米邦武氏は「佐嘉」は「坂」が多いので「さか」が「さが」となり、坂を下る車の音が轟くことから「とどろき」が「ととぎ」に転化したと言われている。又元山口大学教授川副博氏も久米説をとられている。
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出羽
中央公民館の東方、通称丸山に羽黒権現社が祀られていた。丸山開拓のため、現在は玉林寺西方の山林に移転されている。昔は玉林寺の抱宮で玉林寺管轄の社であった。この社は山形県出羽の羽黒山、羽黒権現を勧請した社である。(玉林寺開山無着禅師はこの山形県の出羽羽黒山で修行していた)羽黒山は出羽三山の1つで修験の山として繁栄した霊山である。山頂付近に出羽神社がある。出羽地区の地名はこれによって起こったものと言われている。
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於保
建長7年(1255)、於保三郎宗益という豪族が当町於保に住み、於保並びに鍋島町増田を領し、肥前執行職として権力を持っていた。その子孫は代々於保姓を名乗っている。この姓がそのまま地名となった。於保村を安松村と言っていた時代もある。元亀元年(1570)今山陣の時於保家は亡び、龍造寺隆信によってこの城跡に於保天満宮を移し建てられ今日に至っている。
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屋形所
後鳥羽上皇が当地御通過の折りこの地区へ仮泊された御館のあった所ということから屋形所というとか。「鳥羽院山教信寺由来記」によると、後鳥羽上皇が隠岐に流されるとき、苅田郷の領主西川家房が自分の領地である神埼郡絹巻里に上皇を移し、上皇はその地で延応元年(1339)に崩御されたという。それでこの地を鳥羽院と称した。後世では鳥羽院と書いて「とばえ」といっている。
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折敷野
御鳥羽上皇御通過の節、ここで休憩され、道端のしばを折り敷物にされたので折敷野というようになったという伝説がある。
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大願寺
昔北條時頼が当地へ来て病気したとき、5社に平癒祈願し病気が治ったので大願成就寺と名付けた。それが後に大願寺になったという伝説もあるが、ここには奈良時代、国分寺にも匹敵する大伽藍が建てられ万年山大願寺と称していたので、大願寺という名はこの寺名によると見るのが確かだろう。
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今山・横馬場
男女神社由来記によれば、ここら一円を男女山と言い、今山というのは「今」の字は「二タリノ人」と書く。「二タリ」とは男女の2神を指したものとされた。昔はここに光明寺(廃寺)があり、その塔頭(子院)や末寺が建ち並び、南北に通ずる道路堅馬場、東西に通ずる道路横馬場があった。横馬場はこの道路名がそのまま地名になったという。
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山王
ここには山王社が祀られている。山の神の信仰であって、平安期の始めごろ、比叡山に「大山くい命」を祀ったのが始まりと言われている。山王という地名はこの社名からきたものであろう。
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国分・尼寺
天平のころ、国ごとに国分寺が建てられた。肥前の国では大和町国分に国分憎寺、尼寺に国分尼寺が建てられ、その寺名がこの地名となったものである。
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大和町
昭和28年の町村合併促進法に基づいて、昭和30年4月16日隣接している春日、川上、松梅の3村が合併し大和村として発足した。旧三村大和の精神を基調とした住民の福祉を増進するのがねらいで命名された。昭和34年1月1日町制施行により大和町と改称した。 ※平成17年10月1日1市3町1村の合併により佐賀市となった。