真珠観音
大きさが2cmにも満たない小さな観音像である。
中原の月桂庵の開山、龍水叟硯和尚が、京都の仏師に千手観音の作成を依頼し、大阪から船で運ぶ途中に暴風雨にあい、海底に沈んでしまった。再度和尚は作成を依頼し運んでいると、前に難破した地点で船が進まなくなったので、海中を見ると、一条の光が見えたので、網を入れてみると、1個の真珠貝がかかってきた。真珠貝の中央に観世音の尊像があったので、和尚は千手観音と一緒に真珠観音を月桂庵に祀ったという。
富士町中の原、通称寺の谷の入口に観音堂がある。
鐘を打って仰ぎみるところに大きな額があり、「円通閣」と大書してあり、昆那金粟書と認めた印字が刻記してある。亦御堂の中にも月桂庵と記した金粟書の小額が掛けてある。この金粟院こそ当庵の大壇越小城藩主鍋島紀伊守元武公である。
天井の記録板には「巍々三十三尊万春開光大壇越小城藩主鍋島紀伊守元武公 家老大塚隼人息忠大目付数人、当庵開山龍水叟磧説焉、大工武藤金右ェ門孝藤外小工許多」
宝永七年十一月吉祥日 と記してある。
真珠貝の中の10mmばかりの観音像は珍しい貴重な仏像で、信仰厚く、その御利益は今なお有難いものがあると、村人達の信仰は重厚なものである。
真珠貝の中の観音像の御開帳は4月19日の夕方、観音堂において御開帳の上、御祭りが開催され、善男善女の信仰も厚く、昔は月上のお経と並んで、参詣人が列をなしたと古老は物語っている。