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[旧佐賀市][兵庫校区]は88件登録されています。
旧佐賀市 兵庫校区
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御用瓦焼きの跡
藤木に佐賀藩の御用瓦焼きを置いていた。『弘化二年の総着到』によって、石高を見ると、土器師、家永吉次郎、3石6斗、弟子1人1石8斗として扶持米を給されていた。
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小太郎丸
東中野の北端に13戸程の小区域の小太郎という地区がある。昔、小太郎丸という郷士が館を構えていたと伝えられる。 江副宅を中心とする一画、9段歩ばかりの土地であるが、二重の濠に囲まれて地の利を得た要害とみえる。以前は土地が数段高く雑木林があったというが、濠を埋めるために開いてしまった。春日の玉林寺古文書に左記の寄進状があるが、東渕からこの地域は玉林寺の寺有田であったことや千葉介の所領であったことから、文書の小太郎丸はこの小太郎ではないかと考えられる。 鑰尼季高、田地寄進状 奉寄進 玉林寺 肥前国佐嘉郡巨勢之庄、小太郎丸名田地拾五町之事。 右者為天長地久御願円満、季高至後々将来所奉寄進 附状如件。 明徳二年(1391)正月十一日 鑰尼信濃守季高判 このほかに、千葉介が与えた玉林寺、寺有田安堵の書状に小太郎丸名が記されている。
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下渕のネバル(粘る)
昔、秦の徐福が不老不死の霊薬を求めて、わが国へ来朝したと伝えられる。新北村の浮盃津から芦や萱の茂みをかきわけて、金立山へ向って進む途中、下渕で粘る悪路に難渋し、歩みを止めたというので、ここをネバルという。数十年前、古賀伝七翁が1基の石碑を建て、これを記念した。今この記念碑は古賀宅の屋敷内にある。 その西方100m余の地点を千洗(洗足)というが、それは徐福が足を洗った所だという。
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テンボ
ネバルの東方の濠の中に、テンボという島状の狭い土地がある。大昔この辺は海で船が通っていた。テンボは当時船の帆柱が残っていた所という。伝説によると渕地方は海中の渕であったそうで、高木瀬方面の瀬は海中の瀬であったという。
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成富兵庫とその恩恵1
成富兵庫茂安は、永禄3年(1560)佐賀郡鍋島村増田で生まれた。父は成富信種といい、隆信に仕えた勇将である。兵庫は幼名を新九郎信安、後に茂安と改めたが、信は隆信の信、茂は直茂の茂を賜わって改めたものである。「鍋島家に成富あり」と他藩にせん望された。加藤清正は1万石をもって任官を勧めたが、「譜代の主家を捨てられぬ」とこれを断った。 直茂が今山の敵陣を襲った時、茂安は父信種に出陣を願った。父は固くこれを止めたが聞かず今山に行き戦場を見て帰った。茂安11歳の時である。直茂はこれを賞して左右の臣として重く用いた。以後国内を始め筑前、筑後、肥後、薩摩などの戦いに従軍すること数十年、至る所敵なしで幾多の戦功を立てた。朝鮮の役では鍋島茂里とともに、藩の先鋒となった。吉州の戦いでは、その一隊で敵の大軍を斬りまくり、唐島の戦いでは敵船数隻を捕獲している。また上国に使者となり、あるいは諸侯に往来し、その応待は見事であった。 とくに彼の治績は、土木水利にかつ目されるものがある。市の江川の末流を引いて、巨勢の荒野に流入し、兵庫の沃野を開拓したことは、郷土史の上で忘れることはできない。また永島川を改修し、三法潟郷に新田を開墾し、三根の諸村に樹木を植えて佐賀城を隠し、遠くから見えないようにした。佐賀城を別名沈み城というのはこうした意味だともいう。 成富兵庫の水利土木工事のうち、最大なものは石井樋の天狗鼻、象の鼻の施工である。この結果、灌漑と飲料水は確保され、支流末流に至るまで水量豊かに、広く幾万の人々の生活を潤した。また千歳川の築堤は、北は千栗村から南は坂口村に及んだ。その長さは12km余、外堤には竹を密植し、水漏れを防ぎ、本堤には多数の松を植えて堤防を固めた。この堤防が完成してから佐賀の東方地帯は、例年の水害から免れることができた。
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成富兵庫とその恩恵2
成富兵庫の生涯をみれば、その前半は幾多の戦いに大功を立て、後半は治水事業に卓越した頭脳と妙技を発揮し、民衆の利益を図った。戦乱の際には兵馬を走らせ、国が治まれば開発事業に全力を打ち込み、文字通り寸暇もなかった。兵庫が救民済世の傑士と敬慕されるのも当然のことであるが、我々は歴史を知ると共に、過去の偉人の遺産に報恩の念を忘れてはならない。 明治44年11月15日、明治天皇が肥筑の野に行幸の折、その功を賞せられて従四位を追贈された。 成富兵庫茂安の名を町名としたこのゆかりの地に、みたまを合祀し300年の式年祭典が各地で行われた。(昭和9年) 兵庫の川西部の渕地方は、鍋島山城守の所領であったが、もともと茂安の知行3.200石の中から分地して山城守がもらったものである。
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津出し道
東中野の中央部を通っている道路は、藩政時代「津(船のつく所を津といった)出し道」といい、上は山内地方へ、下は巨勢郷高尾に通ずる往還(道路のこと)で、人馬の往来が絶え間のないほどであったといわれている。
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伊賀屋天満宮
祭神 菅原道真 天照大神 伊弉諾命 大綿津見命 加藤清正 由緒 当社創立の年月は不明であるが、社殿棟木に「延宝八年(1680)鍋島大和守藤原直氏再興」とあり、ひさしの下棟には「宝暦七年(1757)鍋島山城守願主となって再興する」と註記され、その創始はそれ以前である。昔から文教の神、また五穀豊作、雨乞いの神として巨勢郷各地区よりの参詣者も多かった。干ばつには祭神を有明沖にお下し申し、浮立を奉納して降雨を祈ったという。願主、山城守の尊信も厚く、御供米祭典費や社殿の修繕費なども寄進された。 明治5年村社となり、明治35年本殿を改築、昭和2年拝殿を改築されて、巨勢川東部を代表する神社の格式を整えた。明治42年兵庫町東部の神社は、ほとんどここに合祀された。
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西中野天満宮
祭神 菅原道真 大綿津見命 天香具山神 多岐津姫命 天御中主命 由緒 中佐賀崇廟中野村鎮守天満宮の由緒書きの中から要点をあげると、昔は1町歩の境内で、四方に大堀があった。これは中野氏か、下村氏の館もしくは出城ではなかったかと伝えられている。松、杉、樫などの大木が生い茂り、中野、下村両家の崇廟であるという石の祠があった。 龍造寺隆信、鍋島直茂らの尊信ははなはだ厚く、永禄6年(1563)当社を再建した。その後も出陣の時には必らず当社に参詣して戦勝を祈願し、そのつど勝利を得、奇瑞につくづく感心されたと伝えられる。 隆信は自筆の大文字「天満宮」の掛物、その他鎧、弓、槍、旗などを寄進し、直茂は刀(関兼光)を奉納された。光茂時代、拝殿その他が大破したので、延宝4年(1676)造営している。 元禄12年(1699)、朝廷の大仏師如鑑に天満宮の御神体を造立させ、宝暦2年(1752)成就寄進された。明治4年10月村社となり、明治42年兵庫町、川西地区の神社は、ほとんどここに合祀された。 なお明治、大正の頃まで、この地方に歌い伝えられた次のような俚謡がある。 「中野のじゃあどん(官主)起ってみやい、起っぎいよかことあろうばん。」龍造寺隆信が出陣のおり、この天神様に戦勝の祈願をした。挨拶に出た官主は座を起とうとしたが、隆信の威風堂々とした姿に腰が抜けて起てなかった。これを見ていた近侍のさむらいが、手拍子打って歌ったのが、この唄の始まりだという。その後子どもが喧嘩して転んだり、幼い子をあやす時に、これを歌ったそうである。 龍造寺、鍋島家の尊信が厚く、由緒書や前記宝物なども多かったが、神社の衰退とともに、これらの宝物も、しだいに散逸しつつあるのは残念である。
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老松神社その1
祭神 菅原道真の室 由緒 巨勢神社の由緒記によると、源頼朝が家来を諸国の地頭に任じていた頃、建久5年(1194)武蔵国7党の随一であった児玉党の宗家である参河守俊治がこの地方に下向して、本城を牟田に築き、故国の氏神であった老松大明神を勧請し、巨勢庄500余町の崇廟とあがめた。なお老松明神の他に、淀姫大明神、天満宮、乙宮大明神をあがめたので4社の明神ともいった。その後、花園法皇の延慶年中、立川阿波守一族が、鎌倉の今泉村から当国に下向し、巨勢の地に場所を選んで今泉村と称し、そこに館を築いた。そして巨勢庄の崇廟である老松大明神を今泉村に遷し、その後宮に老松天満宮をあがめたとある。老松神社の主祭神は道真公の北の方、老松女となっているが、鳥栖市の瓜生野にある老松社の由来記によると、道真公の第5子長寿麿が、この地で亡父の像を自ら刻んで祀ったが、長寿麿の家の名を老松といったので、その名をとって付けたともいう。
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老松神社その2
鎭西肥前國巨勢の庄、鎭守宗廟老松神社鎭座の由来を尋るに源頼朝公諸國に地頭を兼ね給ひ後鳥羽院の御宇、建久5年(1194)甲寅にあたり武蔵の國児玉○の宗士参河守俊治筑紫肥陽の地を領し此地に下向あり、巨勢10名又は5名とて巨勢、池田、真崎、宮崎、千住、牟田口、井原、松永、播、江副、奥曽、公門、近藤、田所等の家臣を連れ、本城を牟田と云ふ所に築き、武蔵の巨勢野に准へて巨勢と号せられ、故國の氏神、老松神社を瓦町の本社に勧請し、500余町の宗廟と仰ぎ、並びに淀姫神、乙姫神を崇め奉る。 祭神 菅原道真、天照皇大神、伊弉諾神、淀姫神、仁徳天皇、應神天皇、乙姫神、大己貴神(天照皇大神外4柱は明治43年合祀により追加する)
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経島寺
曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 由緒 高倉天皇時代(1177頃)小松内大臣、平重盛建立。開山僧は不明であるが、天正6年(1578)千住伊賀守が四国の僧、湛蔵司を請じ住持とした。寺内に重盛の位牌があるが、1枚石で総高1尺6寸、表面に「当寺開基小松府殿贈一品内大臣左相浄蓮大居士」裏面に「治承三年己亥八月朔薨、元禄十丁丑八月朔日鍋島内記藤原朝臣茂英敬奉安置之」と刻んである。墓所内に千住伊賀守の墓、及び姉川の城主として有名であった姉川弾正惟安の石碑がある。 第1世中興開山無着妙融大和尚以下11世を経て、忍海徳山大和尚(古賀徳山)は堂宇を再建し内容も充実、再中興の実績をあげた。徳山師は永平寺の高僧森田悟由禅師に従い、全国をまわり布教され、特選宗会議員に推挙された。昭和6年10月、69歳で入寂された。当山13世中沢明男大和尚は昭和49年3月入寂。
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光圓寺
本派本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 後陽成天皇の頃、仏道に帰依して入道した直茂の一族である鍋島伊賀守道虎は、法名を生三と号して、堀立区外野の東端に館を建て、ここに居住していたが、慶長5年(1600)に一寺を建立した。 天保4年(1833)8代雪村住職の時に、現在の堂宇を再建し、更に昭和3年俊隆師の代に大改築をして、面目を一新した。当寺は創建以来聞慶寺と称したが、明治維新の始め、地方庁の寺院名簿に光円寺となっていたので、その通りに改称された。
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正見寺
真宗本派本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 天正2年(1574)建立。開山は皆念和尚、現住職は傍見譲了師である。
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福寿山無量寺
曹洞宗 本尊 千手観世音菩薩 由緒 天正12年(1585)3月、中牟田七郎衛門は隆信に従って島原の役で戦死した。その子中牟田喜左衛門は、父の菩提を弔うために、かねて尊信した珠鎮和尚を迎えて開山とし一寺を建立した。しかし明治36年火災に遭い、堂宇を始め一切を焼失した。 当寺は中牟田家の開基で、その末裔故海軍中将子爵中牟田倉之助の発願で同年末、現在の堂宇が再建された。落成記念碑は本堂前東側にある。
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光輝山 敬法院
曹洞宗 本尊 釈迦如来 由緒 不詳。現住不在で前住は4世、東延成師であった。
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東渕山 恩林寺
曹洞宗 本尊 地蔵菩薩 由緒 創立は不明であるが、およそ200年前という。多数の寺領があったが、現在は民家の手に移り、恩林寺田の名が残っている。春日の玉林寺の末寺である。 本尊の地蔵菩薩は、地区住民の尊信厚く日々参詣者が多かった。しかし本尊の御開帳は許されなかったそうで、罹病者がある場合はお籠りして祈願すれば必ず治るとのことであった。
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福聚山 寿徳寺
曹洞宗 本尊 観世音菩薩 由緒 鍋島直茂に祈祷を申し付けられた国分寺住職勢岩和尚は、毎月佐賀城を訪れたが、遠路のことで藤木村に中宿して休息するのが常であった。 この勢岩和尚が、天正6年(1578)遷化されると、「自分の命代りになった」といって直茂はたいへん感激し、関平兵衛、勝屋勘右衛門の両人に命じ、藤木村に寿徳寺を建立させ、勢岩和尚の弟子在室和尚を開山とした。本堂庫裡とも明治26年(1893)の大暴風で倒壊したが、大正7年(1918)、先住17世原口啓一師によって再建された。
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万徳寺
真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 天正年間(1580)頃、源左衛門尉正国という武士が発心して、一山を創始し万徳寺を建立した。始め真言宗であったが元禄8年(1695)真宗に改めた。初代住職は善幽和尚で、現住職は12世杜田善雄師である。
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妙常寺
日蓮宗 本尊 護国大本尊(元冠の役の時、宗祖日蓮上人が身延山中で書いた大日本衛護大曼荼羅) この大曼荼羅に西尊、四士、文殊、普賢、四天、二明、宗祖日蓮上人が梵字で表示されている。 由緒 現在妙常寺に合併されたが、その隣に元中年間(1380)頃、相良肥後守の発願によって建立された渕川山本照寺があった。開基は肥後守の嫡男日乗上人である。渕川城主、空閑参河守も本寺の檀家であったので、内室日恩大姉(龍造寺家兼の息女で直茂の養女、天文5年(1536)逝去)の墓も同寺にあり、位牌も安置されている。このような関係で御茶湯田1反4畝の外に田地1町3反7畝の寺領も得ていた。 その後隆信御代に当寺住持14世日秀僧へ祈禱を命じられ、また直茂夫婦より関が原の戦勝祈禱、勝茂よりも大坂陣の戦勝祈禱の命があり、寺領田地4町歩を得ている。龍造寺、鍋島家の信仰が厚かったが、しだいに寺運衰え、隣寺妙常寺に合併された。 妙常寺は後柏原天皇の永正年中(1510)頃小城地方の豪雄、千葉介胤繁が建立した寺で、寺領2町を有し、龍造寺、鍋島両家の尊信も厚かった。100年前、寺家究調の際、寺領没収の災難にあったが、住職順法院が納富治部太夫の兄であったことから屋敷若干を下付された。当時は旧藩時代、日蓮宗12か寺の一つとして色衣聖人の寺格で優遇されたが、幕末の廃仏毀釈の大変革によって退廃した。しかし当山中興27代日孝上人(大正9年8月遷化)続いて28代真木孝淋上人などの不断の精進による布教、伝道の結果、遂に昭和元年、2万数千円の巨額の寄進を得て、現本堂の大改築が成就した。
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照林寺
曹洞宗 本尊 聖観世音 由緒 不詳であるが、墓碑面に元禄、享和、享保の年号を刻んだものがあるので、相当古い歴史をもつと思われる。明治34年法地許可。
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大仙山 長興寺
曹洞宗 本尊 薬師如来 由緒 380年前、大宰少弐の末裔下村生運を開基とし、勅特賜、仏鑑大光禅師を開山とする。 本堂は、天保年間(1830〜1843)に初代下村辰右衛門によって再建された。観音堂は昭和30年解体したが、これも同人の建立によるもので、子孫繁栄の祈願をこめて総瓦ぶきのお堂に33体の観世音菩薩を安置し、両側に不動明王、自己の木像を安置した。長く集落民の集合所となり、青少年の勉強場、遊び所に使用されて荒廃が早かった。 下村辰右衛門家の田地は兵庫町内にも多く、明治末期、養子4代辰右衛門は多額納税の貴族院議員であったが不幸にして没落した。その娘婿は「次郎物語」の著書で有名な下村湖人氏である。
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東光山吉祥寺
真言宗醍醐派 本尊 不動明王 由緒 当寺は寛文年間(1661〜1672)鍋島山城守藤原直氏が鍋島家の祈願所として、豪伝大僧都を開山に迎えて創建した。直氏は子孫隆昌を願って寛文11年(1671)3月豪伝大僧都を導師として、大乗妙典1万部を写経し、さらに延宝9年(1681)9月、再び大乗妙典1万部を写経した。この写経本を境内に埋蔵し石塔を建立して供養した。 また鍋島直愈は宝暦5年(1755)5月、英弁大僧都を導師として、大乗妙典1万部の供養塔を建立した。鍋島家代々の信仰厚く、その祈願所として隆昌したが、明治初年寺録の返還を命ぜられ、寺運退廃して伽藍も消滅し、廃寺同様となった。地区住民はこれを遺憾としその再興を計った。 ※『佐賀県近世史料第十編第一巻』のp214、天明7年(1787)の寺社差出によれば、東光山吉祥寺はこの時代には天台宗で、「当寺儀、寛文元辛丑年山城殿先祖勝直(ママ)殿代、為祈願所 豪傳大僧都中興ニ而建立有之候事」とあり、豪伝大僧都は中興としている。開山は「快久法印 年号相知不申候」とあり。
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兵庫町の寺院台帳に残る寺跡
下渕、長泉寺。藤木、祐林寺、高月庵、盛秀院。東中野、善応寺。西渕、宗善寺。堀立、善定寺。
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きひょうえ橋(喜兵衛橋)
兵庫小の北東、巨勢川(市道若宮西中野線)に架かる橋。 きひょうえ橋の由来は、その昔若宮の豪農八田喜兵衛氏が自作田を農耕のために、巨勢川の東より西側へ橋を架けたのが初めで、その後八田平太郎氏の発起で騎兵隊の協力で石の橋が架けられました。 平成になって巨勢川の改修工事に伴い現在の太鼓橋となり水難防止の立派な橋となりました。
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ノウルシ
水辺や湿地に群落をつくるトウダイグサ科の多年草。茎は高さ40~60cm、春に上部の葉が黄色になり、その葉の間に多数の小さなさかずき状の花を咲かせる。茎を折ると出てくる白い液に触るとかぶれるため、「野漆」という名前がつけられた。本州から九州・四国に分布する。 兵庫町では圃場整備による環境の変化や除草剤などに耐えながら自生しているが、環境省及び佐賀県のレッドデータブックにおいて準絶滅危惧(NT)に指定されている。
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横堤
川の氾濫による浸水被害の拡大を防ぐために設置された緑地帯(堤防)である。江戸時代につくられたと推測され、その長さは神埼市神埼町境から巨勢川まで約1,650mにのぼる。佐賀藩の治水事業で名高く、兵庫町の開墾にも携わった成富兵庫茂安の事績であるとも考えられている。 このような緑地帯は、昭和の初めまでは調理や風呂の燃料(焚物)の採取場所として使用され、住民の生活に身近な存在であった。しかし、ほ場整備とともに伐採が進み、残るのはこの横堤のみである。現在ではその歴史的経緯とともに、佐賀平野の原風景としての価値が見直されており、地元住民により大切に管理されている。
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牟田寄遺跡出土銅印
重要文化財
牟田寄遺跡は、佐賀市兵庫町にあり、標高3メートル前後を測る低平な沖積平野に立地する。当遺跡は、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代と多岐にわたる時代の遺構・遺物が確認されている。なかでも中心となるのは弥生時代後期で、特殊な柱穴構造を呈した掘立柱建物群等の遺構や、土器・木器などのおびただしい量の出土遺物などから、当該期に大規模な集落が展開していたことが明らかになっている。 また、大規模な谷地形(流路)があることがわかり、この部分の埋土中からは、貝層とともに各時代の土器、石器、自然遺物を多量に出土した。 これらの出土遺物に混じって、銅印が検出された。総高4.3センチメートル、印台高0.45~0.6センチメートル、印面方3.4センチメートル、重さ105グラムで、文字の解釈は確定していない。この銅印の所属する時期は、同一層位から出土した土器から判断すると9世紀から10世紀のものと推定される。 年代と印形態がほぼ合致すると考えられ、古代銅印の発達史を知る上でも貴重な資料である。