汲桶

汲桶

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2048

 川副における農業的水利用の特徴は、わが国の殆どの水田地帯のように、高い河川や溜池から水をひいて田をうるおすのではない。そうではなくわざわざ低い堀に水を溜め、高い田にこの水を汲み上げて水をまかなった。つまり「自然灌漑」ではなく「揚水灌漑」なのである。掛け流しではなく汲み上げるのであるから、同じ水を反復利用することになる。
 ここでは「水は高さより低きに流れる」 の自然の道理がそのままでは利用されず、「低きに溜めて高きに及ぼす」のである。まことに利にかなわない不自然な水利用であった。しかしそれは川副の自然地誌的な生い立ちがそうさせたので、ここで生きる人々はこの不自然の理にたち向かって生きなければならなかった。利用できる大きな河川や豊かな水源池がないために、個々の水田の側に貯水池としての濠を掘り、そこに溜めた水を揚水して反復利用したのである。したがってここでの問題は如何にして水を汲み揚げるかであった。揚水手段が決定的に重要であったし、その開発進歩は農業生産に大きな影響をあたえた。またこの揚水には多くの労力と時間を必要であったから、汲み上げた水をなるべく有効に利用しなくてはならない。そのため独特の犂と犂耕技術が開発されるのだが、先ずここでは揚水手段から述べておこう。
 ではどのようにして低い堀の水を汲み上げたか。知る限りでの古い時代の方法は「汲桶」である。全国的には「打桶」や「ふりつるべ」などいろいろな呼び名があり、佐賀では「釣桶かっぽう」ともよんだらしいが、ここでは一応「汲桶」とよんでおきたい。実はこの汲桶が大詫間の江口佐八氏宅で発見された。おそらく佐賀では唯一のものであろう。桶はごく薄い杉の枚をきわめて巧みに組み合わせて作っており、果たしてこれで水が汲めたかと思われるほどの精巧なものだが、取っ手には紐のくい込んだあとが残っており、その年輪を思わせる。桶全体に深い傾斜がつき、ふっくらとしたふくらみがついている。まさに一つの芸術品をおもわせる出来ばえである。
 さてこの「汲桶」は、古い農書にもその図がのっており、堀の畦ふちに2人がたち、各人が2本の紐、(つまり桶の取手の両端からと底からの2本)計4本をあやつって水を汲み上げるのである。底からの2本の紐は桶の姿勢を制御し、うまく水を汲みその水がうまく吐きだせるようコントロールするためのものである。
 『地方凡例録』によると、「田毎二水口トテ水ヲ汲上ル所ヲコシラへ置、水一斗六七升入ル薄板ノ底小キ桶口、上下綱ヲ二筋宛両方ニ付、二人水口ノ左右へ分リ、両方ヨリ堀へ打込ミ、水ヲ一盃入レ田へ刎上ル、不仕馴シテハ出来ザル所作也。」
 つまり2人で桶を堀に投げ入れては汲み上げ汲み上げして、灌水したのである。1回の汲み上げる量は、せいぜい30㍑@(1斗7升)ぐらいであった。ふつう1度に300桶ぐらいを汲み上げたというから大変な労働であった。当時の日課は、例えば土用前であると、朝4時ごろ起きて日の出前まで一度水を汲み上げる。それから朝食をすませて昼まで田の草をとる。しばらく昼休みをとって再び草を取り、夕方から日暮れまで再び水を汲むといった具合であった。前掲書でもいっているように「甚ダ骨折ルコト也」であったし、また「不仕馴シテハ出来ザル所作」でもあった。大詫間で発見された江口佐八氏提供のこの汲桶は、おそらく江戸末期のものと推定されるが、江戸時代の農民の労苦が、そこには深く刻みこまれている。
 江口佐八氏は当時80歳余の高齢であったが、「私はもちろん父も祖父も実際に使ったことはないが、先祖伝来のものだから大事に蔵っておくよういわれていた」と語っていた。踏車がはいってからほとんど使われることはなかったのであるから、この話は真実である。

出典:川副町誌P482.〜P.485