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[神社仏閣][寺][循誘校区]は10件登録されています。
神社仏閣 寺 循誘校区
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清心院
永正年代(1510年前後)龍造寺豊前守胤家が居館とした。後年、西の館に移って、ここはその子の斎亮に譲った。斎亮は、深く仏を信じ、豊前の国彦山権現に参籠修行し、遂に僧となり、清心院と称することになった。やがて、居館を寺としたので法号をそのまま院号とした。 慶長年間、佐賀城構築のときから、この寺が城の東北隅にあるので、鬼門鎮護の道場とし、西北隅の天祐寺とともに、佐賀城の出城の役目をしていた。現在でも清心院の周囲には堀が残っていて、当時の要衝の地であったことを偲ぶことができる。
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願正寺
関ケ原の戦いに鍋島勝茂は西軍の豊臣方に加わり、伏見城を攻め下し伊勢の阿濃津城を攻めている間に、東軍の徳川方が勝利し西軍は敗北した。このため鍋島勝茂はたちまち進退に窮してしまった。このとき、小城出身の金持院元佶長老と、西本願寺の准如上人が、中にたち斡旋につとめたので、鍋島家も危機を脱することができた。これによって鍋島家では元佶長老のため小城に三岳寺を、西本願寺のためには、佐賀に願正寺を建立して報うることにした。願正寺には鍋島家から四百石の寺領を与え、また三岳寺にはその門前を寺領となしたので、今でも寺の一帯を門前と云っている。後に南禅寺の住職にもなった。佐賀藩領にはドミニコ会やイエズス会のキリスト教会があったが、その導入の際には、仏僧との対立で大変険悪な状態であったが、多くの反対のなかで元佶長老はこれを快諾したので、これを聞いた人は驚嘆し、なかなか信じることができなかったと云われている。願正寺は、鍋島家のためによく勤めた。寛永2年洪水のため千栗堤防が2ヶ所決壊したときは、国内の門徒を集め、その一手だけで天建寺前の660米を修復した。費用も門徒で負担したのでこれを御馳走土井と云うようになった。また、天明年間には、杵島干拓の潮止め工事に人夫を延べ3万6千人を出し完成を助けた。愛宕神社前の川を『新堀川』又は『真宗堀』と呼んでいるが、これは願正寺建立後、鍋島家が領内の真宗僧侶門徒はすべて西本願寺派の願正寺に所属するようお触れを出した折り、それに従わなかった他派の人々がいて、首謀者が捕らわれ鎮静し、首謀者は許されたがその罪を償うために掘らされた堀である。明治16年初の佐賀県臨時県会が願正寺で開かれ、明治19年まで同寺で県会が開かれたこともあった。願正寺の鐘が佐賀城本丸の時太鼓とならんで、佐賀城下の時鐘として用いられたのは、元禄9年(1696)からで佐賀城本丸の時太鼓は、藩役人の出勤時刻を知らせていたが、願正寺の時鐘は佐賀城下の市民一般に時刻を報じていた。この願正寺の鐘にヒビが生じたので、造り替える金もなかったので、春日村の『玉林寺』の梵鐘を譲り受け高寺付近から時の鐘を鳴らし、昭和3年4月に廃止した。願正寺鐘楼は全体的に屋根造りは重厚で美しい線形をしており、鐘楼としては伊勢町の真覚寺が佐賀市の文化財に指定されているが、これに勝るとも劣らないものである。
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殿さま御成りの間(願正寺書院)
現呉服元町の願正寺には、藩主の御成間と伝えられる書院が残されている。本堂の東側、庫裏との間に南面して建つ。屋根は、切妻造桟瓦葺、梁間は2間半で、南側に1間幅の下屋庇を降ろし、側まわり柱上には舟肘木を載せる。間取りは、西側に十畳の座敷、その東側に二十畳の次の間を並べ、南側にそれぞれ1間幅の入側線を付け、境は竹の節欄間を載せた杉戸で仕切られる。座敷は1間幅の付書院に、天袋、崩型の違棚を備え、床框は漆塗り、床構えの造作に優れる。床柱、長押は面皮付の杉村で、次の間東側にも杉戸を入れる。部屋境には上下に壁を挟んで筋欄間を入れる。 豊増龍太家(八幡小路)の造作と比較すると、柱幅、内法高、柱間、天井高など、数値的には近似をみるが、使用材料や装飾に差が見いだせ、藩主の御成間にふさわしい格式を示している。元禄15年(1702)建立の本堂があり、また本堂前の石灯籠は宝永5年(1708)の刻銘を持つので、この間に庫裏を含めて建立されたと推定され、様式から判断しても元禄から宝永頃の書院として間違いない。 佐賀城下に残された最良の書院遺構として、建築年代、建築的質、建築の由緒から見ても第一級の価値を有する。
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願正寺本堂・初の県議会会填
願正寺は慶長5年(1600)の創建であるが、現在の本堂は元禄15年(1702)の建立で、3代佐賀藩主・鍋島綱茂が大檀越となり、親類同格の多久家・多久茂文が廰主となって、当寺第6世慶海を願主として竣工した。 佐賀藩内の真宗の中心寺院として建てられた、13問四面の、九州でも有数の大きい木造建築である。歴史的に見てもほかに類をみない年輪と機能の集積を重ねた貴重な建物である。 天井裏の骨格はいろいろな種類の木材が組み合わされており、お殿様の御声がかりで藩内各地から木材が集められたようである。 また、本堂内陣と外陣の巨大な丸柱と天井の格子板はすべてケヤキ作りであり、今日では外材以外では復元不可能といわれる貴重なものである。 なお、この本堂では本来の参詣者用だけでなく、たとえば明治16年8月、初の佐賀県議会が開かれ、19年1月の臨時県議会まで通算7回の議会開催に使用されたと思われる。 当時はまだ、大勢の集会ができる大きな建物がなく、産業関係など、さまざまな会合や催しに願正寺などの城下の本堂が使用された。
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願正寺本堂欄間彫刻「二十四孝」
本堂内陣の欄間は全面に、寺院には珍しいたくさんの人物や動物が彫刻されている。これは中国の親孝行をした子供たちの24編の物語である、二十四孝の彫刻である。 元禄15年の本堂建立の時に作られている。物語には、寒中、雪の中に、病気の母親のために筍を掘りに行った孟宗(もうそう)の話や、冬に生魚を欲しがった母のために、氷の張った水面を裸の体温で氷をとかして魚をとった王祥(おうしょう)の話などがちりばめてある。 これは寺院の建築にあたった多久茂文が多久に孔子聖廟を造ったり、東原庠舎を建てたりして、親孝行を重んじる儒教を信奉し推奨していた影響かと思われる。欄間の裏には「左甚五郎五代末流、和泉岸上但馬五兵衛」などの名が記されている。
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旧町人町に集まる寺院
循誘校区にかぎったことではないが、校区内のゼンリン地図を見ると、藩政時代の町人町と呼ばれた各町に寺院が集中していることが分かる。東は下今宿町の証明寺から西は願正寺まで22ヶ寺を数える。宗派のちがい、規模の大小はあるが、10ヶ町足らずのこの町にこれだけ存在するのも珍しい。寺院名だけ残し、すでに廃寺となったものも数ヶ寺ある。 これら寺院の中で創建年代の判明しているものは、ほとんどが慶長13年(1608)頃の総普請で、屋敷や町小路が作られた以降に創建あるいは移建されたものである。これは一朝ことある時には、武士たちの屯所として、または砦として戦略的な意図をもって配置されたものと思われる。創建年代を比べてみると、わずか数年の間に建てられたものもあるし、あまり長くない期間中に建てられたものもある。 これらの寺院には、いくばくかの寺領としての知行地も与えられたのかも知れないが、この大きな建物の建築費用はどのようにして調達したのだろうか。当時の藩財政も決して豊かでなかっただろうし、富裕な町民も出現しているとも思われない。また寺の維持費は誰が負担したのか。さらにすでにあった小さな街なみに、広大な敷地をどのようにして確保したのか。すでに幕藩体制も確立し戦いの世の中でない時に次々と建てられたのか謎である。 これらの寺院が江戸初期の一戸ごとに所属寺院を定めた寺請制度とどのようなかかわりがあったのかも興味深い。また、南蛮寺と呼ばれた教会が柳町の地に、寺院と隣接して建設を許可されたのも何かの意図があったのだろうか。 なお、校区内のある寺には、天文10年(1541)の銘の記された六地蔵があるが、寺の創建時のものか、後世路傍などにあったものを寺に安置したものかは不明。 ちなみに明治16年長埼県からの佐賀県分離独立を願う有志が集会を開いたのは高木町の観照院であり、同年第1回の県議会を開いたのは願正寺である。
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愛宕寺
愛宕寺は京都竹内御門跡の末寺で天台宗の寺院です。『佐賀県近世史料第10編第1巻』の「天台宗由緒 西目門中 愛宕寺」によると、柳川御陣(慶長5年(1600年)の柳川への出兵)の際に鍋島勝茂が鍋島生三(道虎)に愛宕社へ祈願させ、勝利を得たため、愛宕社を勧請しました。慶長5年以前から愛宕寺は祈祷所として存在していた可能性もありますが、詳しいところは分かっていません。 愛宕寺となって以降の中興の祖は公雄で、正徳5年(1715)に退院し、3世の慶寛は、寛延3年(1750)に退院しています。慶寛は二御丸護摩堂開基を仰せ付けられ、御本尊の不動尊を持ち越して安置しました。その後、宝琳院(鬼丸)へ移転し、またさらにその後、東福院(背振山)へ転住を仰せ付けられたということです。 愛宕権現は、愛宕山の山岳信仰と修験道が混淆した神仏習合の神であり、イザナミを垂迹とし地蔵菩薩を本地としました。愛宕山白雲寺は勝軍地蔵(将軍地蔵)を本尊としたため、特に戦国時代においての愛宕権現は勝軍地蔵として敬まれ、武将からは戦の神として信仰を集めました。本地仏としての勝軍地蔵は、甲冑姿の地蔵菩薩が馬に乗っている像となっており、愛宕山白雲寺から勧請し、全国の愛宕社で祀られました。当神社でもこの勝軍地蔵が今も祀られています。 境内には、旭の森稲荷社、観音堂(観世音菩薩堂)や地蔵菩薩をまつったお堂、文化8年(1811年)銘の大乗妙典壹萬部塔などがあり、寺院の面影を残しています。
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宝専山仏心寺
仏心寺は元禄5年(1692)に創建された黄檗宗の寺院で、開山は禅厳和尚、開基は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の子長行(覚樹院・餅木鍋島家)とされています。本尊は聖観世音菩薩です。山門の左側には元禄4年(1691)の刻銘がある地蔵菩薩立像があり、右側にも地蔵菩薩立像があります。 禅厳和尚は領内の無縁仏の供養のために毎年七月十六日に大施餓鬼の法要を行っており、領民に志紙袋(喜捨袋)を回すことの許可を佐賀藩から得ていました(『佐賀県近世史料第10編第2巻』)。 享保17年(1732)、蝗(いなご)の大発生により多数の死亡者を出す大飢饉(享保の飢饉)が起き、仏心寺でも数百人もの餓死者の弔いが行われました(『佐賀県近世史料大10編2巻』)。翌18年には、5代藩主鍋島宗茂が「御国家安全」「疫病転除」「餓死菩提」のため、仏心寺において大施餓鬼を実施しました。 宝暦8年(1758)には、6代藩主鍋島宗教が享保の飢饉による餓死者・横死者のために「本州庶民累葬墓誌銘」の入った石碑を建てました。ただ、今ある石碑は明治時代に倒壊したため、その後新たに再建されたもので、詳細な墓誌銘はありませんが「本州庶民餓死累葬之墓」として今も敷地内にあります。
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大宝山精金禅寺と定光寺
臨済宗南禅寺派の禅宗寺院である精金禅寺は、江戸期には臨済宗水上山一派万寿禅寺を本山とする寺院で、初代藩主鍋島勝茂などとの深い繋がりを持つ寺院でした。 「寺社差出済家宗由緒」(『佐賀県近世史料』第10編第2巻)によると「佐賀郡大宝村、一、御免許敷地弐段六畝拾九歩、山号無シ、精金庵」「当寺開山芳隣和尚、事蹟不詳、中興天如和尚」とあり、元は山号のない庵であったことがわかります。 現在の寺域には、参道入口の左側に享保17年(1732)刻銘の六地蔵菩薩右側に地蔵菩薩座像があり、歴史を感じさせる山門をくぐった左側には正徳元年(1711)刻銘の正観音菩薩像、正徳3年(1713)と正徳5年(1715)刻銘の如意輪観世音菩薩像の他、地蔵菩薩立像等が造立されていいます。 なお、精金禅寺は、同じく大宝村にあった定光寺を統合し、大宝山の山号を使用したものと思われます。 定光寺は精金禅寺の南方にあったとされ、「寺社差出 済家宗由緒」(前掲)によると、「佐賀郡大宝村之内、一、御免許敷地壱段四畝壱歩、大宝山定光寺」「当寺由緒ハ、永暦元年(1160)庚辰正月三日、渋谷金王丸定光、主君義朝落命之砌、討死と称し此所ニ忍ひ下り、伝教大師一刀三礼之薬師尊像を携来、当寺開山全山大和尚ニ語り三七日祈る、此地ニ瑞現ある故、御堂を建立して安置ス、于時応保弐年(1162)壬午八月也」とあり、応保二年の開山とされています。
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遍照山光明寺
遍照山光明寺は浄土真宗(本願寺派)の寺院で、永禄9年(1566)に龍造寺氏の流れを汲む江上宗光が開基し、江戸時代の初期、第5世了誘の代に嘉瀬深町村より移転したと伝わっています(『灯炬』真宗佐賀地区連合編)。本尊は阿弥陀如来です。光明寺に残る記録によると、寛延元年(1748)には北向きに本堂を建立しました。その後、寛政12年(1800)に北側の野口家の屋敷が本陣とされたため、寺の本堂の向きを東側に移しました。平成29年3月に本堂の大修復が行われましたが、本堂から庫裏を結ぶ通路は昔のままの姿を残しています。 なお、第12世住職龍ヶ江良俊は、佐賀の民謡「梅干」の作詞者とも言われています(山口練一作詞説もあります)。料亭楊柳亭(佐賀市松原)の庭には梅干の石碑があり、毎年春の梅の咲く頃に「うめぼし祭り」が行われています。