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[神社仏閣][寺][高木瀬校区]は5件登録されています。
神社仏閣 寺 高木瀬校区
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正法寺
大字東高木595番地にあって、山号高木山。正法護國寺を正式の名とする。臨済宗東福寺派に属し、春日の高城寺と共に、佐賀の同宗寺院を二分する程の勢力があったというが、それを物語るかのように後醍醐天皇綸旨を初め貴重な古文書が多数残っている。 山門前には 後醍醐天皇綸旨 正法寺 正安三年創立 昭和16年11月吉日 背水 高木誠一 建之 高木良次 と刻まれた石碑があり、又 佐賀市重要文化財(古文書)正法寺文書 昭和46年2月11日 と記された標柱も立っている。 広壮なる敷地に老樹枝を交え、域内清閑として町内随一の古さである。
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宗善寺
豊楽山 宗善寺(曹洞宗) 開山 太圭宗椿和尚 宗善寺には、大般若経六百巻がある。これは天保の頃、檀信徒の奉納によって揃えられたものであって、所蔵の木箱には牛島町武富大右ヱ門と誌されている。 この大般若経による御祈とうは無量の煩悩を取捨し、宝藏、社頭、家内、武運長久を祈るものであって、特に御祈とう文の中に庖瘡軽安なる文句がある所から見ると、古へ如何に庖瘡がまん延し、民衆がほうそうのために苦しめられていたかを物語るものである。御祈とうは法憧開基の牛島町武富氏の家宅を始め、上渕、下渕、東渕、徳永、友貞、二又、百石に及び百石村では正月15日が恒例とされ、現在でも2月の第1日曜に執行されている。 二又でもつい数年前まで行われていたという。若者達は大般若経を担ぐことを息災延命の祈願の一つであるとして争って志願していたという。 さて宗善寺において、特筆大書すべきものは、キリシタン燈ろうがあることである。この燈ろうを織部燈ろうであるとする説もあるが、織部燈ろうは桃山時代の茶人古田織部が美術品として考案したものといわれるが、この燈ろうについて昭和43年11月キリシタン燈ろうの研究家、鳥取市立民俗美術館長、松田重雄氏が鑑定された結果、宗善寺のものは全国で2番目に貴重なものと判った。 宗善寺の燈ろうは、笠石、あかり窓はないが、竿石の上部がふくらみ、竿石の上部にラテン語の〝父〟を意味する「ペイトリー」(PATRI)が刻まれている。下部にはガウン姿の男立像が刻み込まれている。さらに側面には、「岩松天風心来吟」、裏面には「錦上花舗又一重」の詩句が読める。これらの詩は松田氏の話では信者の「聖霊」といわれるもので、詩句がはっきりしているのは全国では東京、目黒の大聖院についで二番目の貴重な資料といわれる。つくられた時代はキリスト教弾圧がきびしくなった江戸前期の寛永、正保、慶安(1624-1647)ごろのものらしく、同氏はこの燈ろうを擬装時型と分類していられる。(昭和43年12月4日毎日新聞より)燈ろうが墓碑の脇に安置されているところから、吉次住職の話では、開基信重の甥重治が、寛永15年(1638)原城におけるキリシタン一揆討伐戦で戦死しているので、多分この戦争における記念品として安置されたものではないかということである。 正面参道の入口には、年代不明の立派な六地蔵が建っており、山門には明治35年10月吉祥日と書かれている。
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極楽寺
山号は、延命山浄土真宗であり、開設当時は法華宗であったが、浄土真宗開興とともに改宗されたと伝えられている。 本尊は、「阿弥陀如来」で、室町時代の作と伝えられているが、木造の本尊であるが作者は不明である。 開基は、了心で俗名「石井弥次郎又は弥三郎家久先祖石井式部大輔」とある。 堂宇の建立年代はつまびらかでないが、記録によれば天保三年(1832)に本堂は再建されている。また、書院は一式は、文化十三年(1816)丙子十月門徒中によって建築されたと記録されている。 極楽寺は、古い由緒ある寺ではあるが、その割には地方のいわゆる貴族、豪族というような古い墓はほとんど見当たらない。ただ特筆すべきものとして、明治7年佐賀戦争の犠牲者の墓2つがあり、地元上高木出身の原口寿七氏と早津江出身で江藤新平直属の香月経五郎の墓がある。 本堂は、昭和5年に瓦葺にされ、庫裏は昭和42年に改築され、本堂約50坪、庫裏その他約100坪の広さを有し、境内は約300坪、墓地は約800坪もある。
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父母寺
・臨済宗東福寺派に属し、両足山父母寺という。 ・開山 : 梅甫和尚 ・敷地 : 2反2畝14歩 御上納地 地米1石1斗8升7合 抱所 ・寄人天神 敷地5畝18歩 御免地 当寺の墓地である通称築山の上に、多々良家と三浦家と2つの豪族の墓地が並んでいる。両家は父方か母方かいずれにしても密接な縁故関係にあり、両家でこの寺を創建したものであり、それ故に寺号を父母寺と唱え、山号を両足山というのも、多々良、三浦両家は両足の如く、父母のごとき関係にあったから、この寺を両足山父母寺となずけたと言うことは素直に解釈される。 開山は梅甫和尚であることは正法寺に残されている記録によっても明らかである。由緒記その他の記録が火災によって焼失しているので詳細は不明であるが明治30年に作成された過去帳はある。歴代和尚の大略は判明する。
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浄蔭寺
山号は天眞山といい、黄檗宗に属する。鍋島勝茂公の4男、直弘は山城守と称し、三養基郡みやき町白石の2万2千石余の城主で、室は萬夫人で佐賀藩武雄領鍋島若狭守茂綱の長女である。領地は、佐賀郡西渕の上下、今の上渕、下渕、東高木の辻あたりと平尾の四丁籠なども所在し、辻地区に館を設けていた。直弘は寛文元年(1661)7月、44歳で没したので、萬夫人は剃髪し名を法樹道人と改め、辻の館に移り黄檗宗祖、隠元禅師の曽孫、碧湖元達禅師に接し仏門に入った。天和元年(1681)6月17日享年59歳をもって示寂した。正貞院殿法樹浄蔭禅師と称したが、禅師入滅に当り、嫡男の白石2代藩主鍋島大和守直氏に遺命して館をもって寺となした。夫君直弘の法号を盛徳院殿前雍州大守天眞日玄大居士といったので、山号を天眞山とし、寺名を法樹浄蔭禅師にちなみ浄蔭寺と名づけた。 開山は碧湖禅師、開基は浄蔭禅師である。 当寺は支藩ではあるが、鍋島家の菩提寺として法燈さん然として輝き、黄檗参禅の道場として重きをなしていたが、文政11年(1828)の大風で堂宇倒壊し、直ちに再建されたものの、明治維新で廃藩となって藩よりの扶持も絶え、明治28年の大暴風雨で崩壊してしまった。後小宇を建立したが昭和28年の大風水害にあい、今は往時の盛観を見るべくもない一小堂に鍋島家ゆかりの幾多の位牌が安置されているに過ぎない。