検索結果 RESULT
[神社仏閣][寺][鍋島校区]は9件登録されています。
神社仏閣 寺 鍋島校区
-
観音寺
鍋島家の旧御館森には天満宮及び観音寺を観請されていたが、年月が経つにつれ旧跡地は荒れ果て草木が茂り、周囲農民の耕作にも支障があると申し出があったので、藩祖直茂は祖先発祥の地を荘厳にするため、西側の地を拓き観音寺を移転し鍋島家菩提寺とした。これは天文21年(1552)高伝寺建立まで続いた。なお経秀一家は代々あつく仏教に帰依し、天下泰平、萬民和楽の祈とうを続け、天明2年(1782)8代藩主松平肥前守治茂の代に本堂を再建し、田畠三町八反永代寄付し、寛政5年(1793)(※1)には観音堂改修のため三百両を寄進した。本堂には鍋島家初期の藩主過去帳及び位牌が安置してある。 鍋島伊勢守経秀 鍋島三郎兵衛経尚及内室 鍋島教頼及内室 鍋島治部大輔清直及内室 鍋島治部少輔栄実 鍋島平右衛門清久 鍋島駿河守清房 鍋島加賀守直茂 鍋島信濃守勝茂 (※2) ※1『佐賀県近世史料第10編第2巻』記載の観音寺の由緒(p399〜400)によれば、寛政元年(1793年)5月。 ※2『佐賀県近世史料第10編第2巻』記載の観音寺の由緒(p399~400)によれば、鍋島伊勢守経秀公、鍋島三郎兵衛尉経尚公・室、教頼公・室、鍋島治部太輔清直公・室の御石塔・御位牌とあり、他の位牌については記録がない。鍋島治部少輔栄実については、どういった人物なのかは不明。
-
蓮成寺
江戸時代初期の頃、三日月村居住領主杉町備中守が仏門に帰依して、一宇をたて後鍋島町木角に移転して今日に至った。記録によれば、2代藩主光茂の妹が備中守の内室であった関係で、延宝3年(1675)8月光茂は両者の為に堂宇を改築し、境内を拡張して田畑を寄進し寺格を改めた。同寺の門前には一万部塔、二万部塔の経碑がある。読誦者は知正院日専上人である。 なお桓武天皇の皇子葛原親王の遠孫、千葉介常胤が江藤新平家の先祖である。この常胤のとき源頼朝から九州探題を命ぜられたが、小城郡晴気に赴任し、のちに鍋島村木角に住み、蓮成寺には祖先より14代までの墓地がある。江藤新平は佐賀戦争の主魁として土佐甲の浦で捕えられ、明治7年4月13日佐賀城内で処刑された。3日後江藤の遺体は首と共に親友相良宗蔵が貰いさげを受け、竹で胴をつなぎ蓮成寺に移した。古老の談によれば、彼の遺徳を偲び参詣人が続き、南の堀端から賽銭をなげたのが毎日叺に入れる程多額であったという。警察では何と思ったか、参詣人を追い払ったので人々はその横暴に憤慨していたそうである。
-
勝楽寺
真言宗に属し、本尊は阿弥陀如来で聖徳太子の御作と称せられ、しかも勝楽という名が吉詳なりとして、武家の間で特に尊崇されていた。往昔日本武尊、熊襲征伐の時祈願をこめられ、また弘安4年(1281)蒙古襲来の時も当寺で祈願をこめ、境内の竹を切って軍用に供し、降って元亀元年、大友軍来襲の際も勇将鍋島直茂出陣の途次当寺に立ち寄り、竹を伐って旗竿を作り武運を祈願し今山戦に大勝利を得た。直茂凱旋後、首途の時奮って協力従軍した新庄、江頭の住民等に恩賞を与え、当寺には屋敷四反、田地六反を寄進した。ちなみに今山戦にて敵大将大友親貞の首級をあげた成松刑部大輔の使用した真槍が、当寺の寺宝として保存されていたが、惜しい事に何時しか所在不明になっている。更に直茂朝鮮出陣の際も、当寺の竹を軍用として用いたが、その旗竿の向こう処何れも大勝利をおさめた。こうして鍋島家代々の馬印の旗竿、着物竿等総て当寺から上納することになっていた。
-
勝福寺
勝福寺は山号を東光山と称し、天正2年(1574)に陽山俊虎大和尚により開山された。宗旨は曹洞宗で、永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)が大本山となっている。 また、本寺は佐賀市八戸の龍雲寺で、開基大和尚も龍雲寺の4世と伝聞されている。ご本尊は東方瑠璃光薬師如来が安置されており、壇信徒の深い信仰の対象となっている。 近世の歴史の中では、昭和8年に江里地区にあった東光寺の小堂並びに墓地・墓石を勝福寺内に移転されたと記されている。 大正時代から昭和30年代には歴代住職と壇信徒が一如となり、竹林の開墾や本堂の建立などを行い現在に至っている。当寺は、静かな田園集落の信心の拠所として、「約430年に渡る法燈」と「ご先祖様の遺徳」を壇信徒が大切に守り続けてきた場所といえる。
-
福満禅寺
福満禅寺は、1600年頃から存在しているが、創建は不明である。当山の開山和尚は流室禅師大和尚(1672年、寛文12年没)である。本山は、京都の大本山南禅寺で、臨済宗南禅寺派の末寺にあたる。現在は13代目で、江戸時代は森田学校(寺子屋)として開校され、現在の鍋島小学校の前身となっている。ご本尊は、薬師如来で、薬や病気の神様である。
-
地尊院
本山は南禅寺(臨済宗)で、当院の由来は天正時代(1573〜1592)龍造寺隆信公家臣の原口・江副両家によって設立された。原口氏から13ha、江副氏から10haの水田を周辺の百姓が小作としてその禄高をこの寺に奉納した。今でも江副氏の子孫は400年以上の歴史のある地尊院を守り続けている。現在住職は、経済的理由等から不在で、鍋島町江頭地区の長寿庵の住職が兼務されている。
-
光福寺
浄土宗史に永正年間(1504〜1521)飯沼弘経寺等3代曜譽酉冏上人が肥前国に帰郷の際、四ヶ寺建立し、その中に高福寺(現存せず)の寺名があり、県立図書館所蔵の浄土宗寺院由緒には神野の潮音寺の末寺として高福寺の名が記されている。鍋島村誌には、創立年月日として、永正四年四月十五日とあるが、おそらく曜譽酉冏上人永正四年正月十五日寂となっているので、当てたものと推定される。 高福寺が光福寺になった年代は全く不明である。高福寺の所在地は鍋島村植木堀内となっており、現在の光福寺と同一である。昭和13年5月18日教学週報社(岩野眞雄)発行の浄土宗寺院名鑑には光福寺は記載されており、寺格等級も平僧二等となっている。 現在の光福寺は平成18年3月に新しく建設された。
-
法常寺
明治初めの廃仏毀釈で寺は壊され、その後再興されたが現存する資料はほとんどない。 しかし、昭和63年の本尊修復工事の際に仏像の体内を詳しく調査したところ、「聖寿比丘が法常寺の住持であった大永7年(1527)4月8日に、伊勢の国(三重県)の六十六部宋須が寄附を募って資金を調達し、筑後国江上庄佐々渕に住む春香という法眼位を冠する仏師に依頼し、この薬師瑠璃光如来を供養した。」と言う記録があった。 修繕の供養や彩色の供養をしたということから、製作年代はもっと前に遡ることになる。 仏像は182.8cmの立像で頭体部を通して前後2材矢引の構造で、楠の木を材料に作られ、極めて地方的な色彩を残す室町時代の作例として貴重であるとの博物館職員の見解であった。 寺の住所は「岸川」となっているが、小字の通称は「西長瀬」いう。檀家の皆様さんは「西長瀬のお寺」と呼ばれている。人工河川の多布施川を造る際に長瀬地区(現在の高木瀬地区)が分断されたため、西地区にあったお寺は鍋島地区になっている。
-
光明寺
東盛庵の東方に、幕末の頃堀に囲まれたお茶屋(世尊寺)とお台場(台所)が造られ、佐賀藩10代藩主鍋島直正公の中折巡検(熔鉱炉、調練場)の折の休息所となっていた。 しかし、その後東盛庵には墓参りする人も途絶え、草が生い茂り荒地と変わってしまった。 そこで、庵故蹟一帯の譲渡について遺族の了解を得て隣接する田畑を一括買収し、新たな霊園を造ることになり、日蓮正宗世尊寺がお茶屋の地を譲り受けて建設された。 この場所では種々の出来事があり、また墓地も狭くなったため、ほかの地区に寺院の建設が必要となり、10数ヶ所の候補地から現在地(鍋島町蛎久)を選定し、平成9年7月に600坪の土地を購入して、平成10年4月に仮本堂等が増築された。 平成14年2月には墓地用地150坪を購入して、平成14年4月28日には盛大に落慶入仏式が挙行され、宗教法人、日蓮正宗光明寺として認証された。全体面積は1200坪である。 この新寺建設委員会や信者の皆さんの純心さと団結力に感銘しており、今後大聖人様の大慈・大悲の佛力・法力を世間に伝え広めて人々の安心と慶びに貢献していきたい。