検索結果 RESULT
[神社仏閣][寺][勧興校区]は4件登録されています。
神社仏閣 寺 勧興校区
-
高寺
正しくは臨済宗寺院「瑞石山龍造寺」といい、和銅4年(711)に行基が十一面観音像を作し、建立したと伝えられる臨済宗寺院。 慶長年間に龍造寺八幡宮とともに現在地に移された。 もとは龍造寺村(現城内)の高台にあり、遠く有明海からも望まれるほどだったので高寺と呼ばれていた。 天井絵の龍が毎晩抜け出して境内の池の水を飲むので和尚の法力により画中に帰した。 その時わざとウロコを一枚落としたため、その後は外へ出ることは無くなったという言い伝えがある。
-
西峰院
勧興校区の西に「西大島町区」があり、その中心に位置するように「西峰院」がある。 まわりを堀や水路が取り囲み、まさしく、島のようである。 ここ「西峰院」には、「酒呑地蔵」の名で親しまれるお地蔵様があり、安産や目の病気を治すとして祈願する人が今でも大勢訪れる。
-
称念寺
佐賀市白山にある称念寺には、りっぱな赤門がある。 左右には、「阿吽の像」もある。
-
鏡圓寺
唐人町の鏡圓寺(浄土宗)は、唐人町の始祖、李宗歓一族及び鍋島更紗の創始者、九山道清の菩提寺である。 李宗歓は、天正15年(1587)郷里(現朝鮮民主主義人民共和国)の海岸で舟遊びに興じていた折、突然の旋風により船が破損し、日本(現北九州市)に流れ着いた。天正19年(1591)、大宰府にて鍋島藩家臣龍造寺家晴と成富兵庫茂安と出会い、これをきっかけに佐賀城下へ赴いたところ、藩主鍋島直茂にその才を見込まれ、重用されることとなった。『葉隠聞書』や『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』によると、朝鮮遠征に同行した帰途、宗歓は主君の命を受けて陶工を6~8人連れ帰り、陶器の製造に着手した。直茂公は慶長4年(1599)、宗歓が連れ帰った高麗人などを佐賀城下の十間堀川以北、愛敬嶋村に住まわせ、唐人(異国人)の住む町「唐人町」と名づけた。宗歓は、唐物の繊維品、陶器類、金物類、海産物、荒物など日本にない珍しいものを直輸入し、これらを扱う商人が集まって、今日の唐人町の基礎を形成していった。 九山道清は、『更紗秘伝書』ならびに『江頭家系図』によれば、慶長3年(1598)、直茂公が朝鮮遠征より帰国する際に連れ帰った高麗人13人のうちの1人である。道清は漢方医の家柄の出であることから、製薬の技法にも優れていた。漢方薬の原料となる薬草は染料となる植物としばしば同一のものであり、それらの高価な材料が、宗歓の海外貿易により比較的容易に入手できたことが、鍋島更紗の創始、発展に重要な役割を果たした。 『鏡圓寺縁起』によれば、唐人町に居住していた数十人の高麗人について、帰依する仏寺が必要になった(島原の乱以降は、宗門改めが特に厳しくなった)ため、寛永3年(1626)、鍋島勝茂公の姫付老女、秀島源右衛門の母の願いにより、鏡圓寺が創建されたとのことである。 左側の写真は李宗歓の墓碑である。