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[神社仏閣][神社][兵庫校区]は6件登録されています。
神社仏閣 神社 兵庫校区
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お宮(6か所)
東渕地区にはお宮が6か所もある。 空閑天満宮、牟田口天満宮、庚申社、養父社、熊野稲荷神社、明護院とそれぞれに氏子がいて、現在もお祭りの時にはそれぞれのしきたりで神事が行われている。わずか70戸余りの地区に6か所もお宮が祀ってあるというのはどういう理由からだろうか。
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天満神社と牛島教正
近衛天皇の仁平元年(1151)菅原道真の末孫、牛島教正は養父郡山浦郷古野と巨勢庄牛島村を領有し、牛島の地に館を構えた。 佐賀市東田代町の天満宮を始め、この地方の祖神として所々に鎮護の神として祀らせた。今日兵庫町に天満神社が多いのもこの理由によるものだろう。 明治以後、巨勢川西地区の天満宮は西中野天満宮に、東地区は伊賀屋天満宮か若宮の老松神社にほとんど合祀されて減少したが、各地区に今なお神社や神社跡が残っている。
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伊賀屋天満宮
祭神 菅原道真 天照大神 伊弉諾命 大綿津見命 加藤清正 由緒 当社創立の年月は不明であるが、社殿棟木に「延宝八年(1680)鍋島大和守藤原直氏再興」とあり、ひさしの下棟には「宝暦七年(1757)鍋島山城守願主となって再興する」と註記され、その創始はそれ以前である。昔から文教の神、また五穀豊作、雨乞いの神として巨勢郷各地区よりの参詣者も多かった。干ばつには祭神を有明沖にお下し申し、浮立を奉納して降雨を祈ったという。願主、山城守の尊信も厚く、御供米祭典費や社殿の修繕費なども寄進された。 明治5年村社となり、明治35年本殿を改築、昭和2年拝殿を改築されて、巨勢川東部を代表する神社の格式を整えた。明治42年兵庫町東部の神社は、ほとんどここに合祀された。
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西中野天満宮
祭神 菅原道真 大綿津見命 天香具山神 多岐津姫命 天御中主命 由緒 中佐賀崇廟中野村鎮守天満宮の由緒書きの中から要点をあげると、昔は1町歩の境内で、四方に大堀があった。これは中野氏か、下村氏の館もしくは出城ではなかったかと伝えられている。松、杉、樫などの大木が生い茂り、中野、下村両家の崇廟であるという石の祠があった。 龍造寺隆信、鍋島直茂らの尊信ははなはだ厚く、永禄6年(1563)当社を再建した。その後も出陣の時には必らず当社に参詣して戦勝を祈願し、そのつど勝利を得、奇瑞につくづく感心されたと伝えられる。 隆信は自筆の大文字「天満宮」の掛物、その他鎧、弓、槍、旗などを寄進し、直茂は刀(関兼光)を奉納された。光茂時代、拝殿その他が大破したので、延宝4年(1676)造営している。 元禄12年(1699)、朝廷の大仏師如鑑に天満宮の御神体を造立させ、宝暦2年(1752)成就寄進された。明治4年10月村社となり、明治42年兵庫町、川西地区の神社は、ほとんどここに合祀された。 なお明治、大正の頃まで、この地方に歌い伝えられた次のような俚謡がある。 「中野のじゃあどん(官主)起ってみやい、起っぎいよかことあろうばん。」龍造寺隆信が出陣のおり、この天神様に戦勝の祈願をした。挨拶に出た官主は座を起とうとしたが、隆信の威風堂々とした姿に腰が抜けて起てなかった。これを見ていた近侍のさむらいが、手拍子打って歌ったのが、この唄の始まりだという。その後子どもが喧嘩して転んだり、幼い子をあやす時に、これを歌ったそうである。 龍造寺、鍋島家の尊信が厚く、由緒書や前記宝物なども多かったが、神社の衰退とともに、これらの宝物も、しだいに散逸しつつあるのは残念である。
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老松神社その1
祭神 菅原道真の室 由緒 巨勢神社の由緒記によると、源頼朝が家来を諸国の地頭に任じていた頃、建久5年(1194)武蔵国7党の随一であった児玉党の宗家である参河守俊治がこの地方に下向して、本城を牟田に築き、故国の氏神であった老松大明神を勧請し、巨勢庄500余町の崇廟とあがめた。なお老松明神の他に、淀姫大明神、天満宮、乙宮大明神をあがめたので4社の明神ともいった。その後、花園法皇の延慶年中、立川阿波守一族が、鎌倉の今泉村から当国に下向し、巨勢の地に場所を選んで今泉村と称し、そこに館を築いた。そして巨勢庄の崇廟である老松大明神を今泉村に遷し、その後宮に老松天満宮をあがめたとある。老松神社の主祭神は道真公の北の方、老松女となっているが、鳥栖市の瓜生野にある老松社の由来記によると、道真公の第5子長寿麿が、この地で亡父の像を自ら刻んで祀ったが、長寿麿の家の名を老松といったので、その名をとって付けたともいう。
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老松神社その2
鎭西肥前國巨勢の庄、鎭守宗廟老松神社鎭座の由来を尋るに源頼朝公諸國に地頭を兼ね給ひ後鳥羽院の御宇、建久5年(1194)甲寅にあたり武蔵の國児玉○の宗士参河守俊治筑紫肥陽の地を領し此地に下向あり、巨勢10名又は5名とて巨勢、池田、真崎、宮崎、千住、牟田口、井原、松永、播、江副、奥曽、公門、近藤、田所等の家臣を連れ、本城を牟田と云ふ所に築き、武蔵の巨勢野に准へて巨勢と号せられ、故國の氏神、老松神社を瓦町の本社に勧請し、500余町の宗廟と仰ぎ、並びに淀姫神、乙姫神を崇め奉る。 祭神 菅原道真、天照皇大神、伊弉諾神、淀姫神、仁徳天皇、應神天皇、乙姫神、大己貴神(天照皇大神外4柱は明治43年合祀により追加する)