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[神社仏閣][神社][新栄校区]は2件登録されています。
神社仏閣 神社 新栄校区
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若宮神社
若宮神社には、若宮八幡宮(応神天皇)を祭ってあり、旧中折地区の氏神様として、深く信仰されている。縁起については、記録がなく詳らかではないが、與賀神社の古文書によると、今から3百年以上の昔から與賀神社の末社として祀られていたようである。 古老の言い伝えによると、旧中折地区には、鍋島藩政時代に下級武士たちが居住し、武士として奉公する傍ら百姓を営んでいたようで、武神として、また、五穀豊穣の神として祀ったのが、始まりと言われている。 また、こんな言い伝えもある。明治42年頃、政府の命令で全国の神社が整理統合された際、若宮神社は掘江神社に合祀された。ところが、その年8月に赤痢が大流行したため、氏子達は若宮八幡宮のお怒りではないかと恐れた。そこで氏子代表が、元の地へ移して欲しいと交渉したところ、政府の命令だから公然と渡すわけにはいかぬ。神殿の施錠を忘れて盗難にあったことにしようと、暗黙の了解ができた。 こういう経過を経て、現在地に神社を再興した結果、猛威を振るった赤痢の大流行も小康を得たという、エピソードもある。 なお、この例祭日は、従来まで旧暦の2月1日の桃手祭、6月23日の夏祭、11月13日の霜月祭がある。桃手祭では、「的射り」といって、藁で作った雄雌二匹の山犬を竹の弓矢で射る行事があり、厄払い、家内安全、地域の発展を祈願する神事が行われていた。また、旧暦では現代社会にマッチしない面があったので、與賀神社宮司、崇拝者、氏子等の意見を聞いて、昭和63年から、桃手祭を3月1日、夏祭を7月23日、霜月祭を12月13日の新暦で実施することに変更した。 現在の桃手祭は、竹の簀の子に白紙を張って「鬼」と書いた的を立て、これを竹で作った弓矢で射る行事に、夏祭は、祇園祭とも言われ、昔は子供達も大勢参拝していたそうで、豆を炊いて接待するなどの風習があったが、今は全く廃れて、ただ神事だけを、霜月祭には、自治会役員を始め、氏子、崇拝者たちが集まって、大きな注連縄を作って、拝殿の古い注連縄と取り替え、新しい年を迎えるための行事に変わりつつある。
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五龍神社
往古当地方の豪族(一族36家)田中という長者が、広く商業を営み巨万の財を蓄え、常に大船を浮かべて各地と通商、大陸とも交易しまわったために、海上の平安を祈り龍神を信仰していた。 ある夜、霊夢によって村の西方の西河水中から危難除去の守護神の黄金色の霊石を得たから、村の西隅に一祠をたてて五龍社と称して一族の繁栄福祉を祈った。これすなわち、欽明天皇26年、西暦564年(※1)のことである。 これを聞き伝えた里人も大いに感じ、鎮守の神として崇敬するようになった。のちに與賀神社の摂社となり二の宮と称せられた。元和年間(1615~1624)藩主鍋島直茂が(※2)親しく参拝し、社殿を造営し、祭祀料並びに修復料として八戸村の田地、四町八反を奉献し、境内に松、杉、楠一千本を植栽し、続いて勝茂の代には家臣多久長門に命じて七社明神を配祀して、藩政時代には神事祭典の儀は八戸宿及び八戸村にてすこぶる盛大にとり行われた。明治6年村社に列せられた。当神社付近の水田には古代土器(素焼き)の破片が広く、また数多く散逸しており、繁栄していたであろう古代社会の様子がしのばれる。 また当社南側に小さな土祠あり、ご神体引き上げに使用した縄等を納めた所と伝えられている。(祠名に南無阿弥陀仏とある。) ※1欽明天皇26年は西暦565年 ※2『佐賀県近世史料第10編第4巻』(佐賀県立図書館、平成28年)掲載の「八戸村五竜大明神縁起記」の解題によれば、「当宮を崇敬していた鍋島直茂室(陽泰院)が元和年中に信州太守(勝茂)建立を願った。社殿修復のため八戸村で四町八段の点役米が免除された。」とあり。