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[神社仏閣][神社][富士町]は29件登録されています。
神社仏閣 神社 富士町
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淀姫神社
祭神 豊玉姫命 玉依姫命 高皇産霊神 猿田彦命 句句之智命 保食神 大山祇命 新田義貞 鎌倉景政 創建の年代は詳かではないが、文久3年(1863)9月に1350年祭の執行があった記録がある。これから推して6世紀前半継体天皇の御宇の勧請であろうと察せられる。 正親町天皇の永禄4年(1561)領主神代勝利、仝長良の父子兵を率いて川上に陣し、龍造寺氏と戦った。戦いに敗れて此の地に走り来って救いを求めた。社人賀村大和守舎種は神代父子を社内に匿くし、俄に村民を集めて、大祭の態をして、神楽を奏して居た。追兵が来て、探索したけれども見付け出すことが出来ず、怒って火を放ったので社務所並に文書等はその時焼失したけれども社殿には及ぼないで、神代父子は無事にのがれることができた。追兵が退いて後、神恩の大であることを謝して、即座に佩刀2振を奉った。後神埼郡三瀬に帰城するや、田7町5反余を奉納して神代家鎮護の神と仰いだ。 玄亀2年(1570)2月長良公社殿全部改築。貞享5年(1688)神代利実修築をする等崇敬一方ならず、神埼・小城・佐賀に亘る十二ヶ山の崇祀として神威嚇々。明治6年(1873)郷社に列せられる。祭神高皇産霊神外六柱の神は無格社合祀によって追加した。
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鏡神社
祭神 息長足媛命 武内大臣 大山祇神 素盞鳴命 句々乃智命 田凝姫命 菅原道真 源義経 後奈良天皇の御字弘治年間(1530頃)合瀬村の地頭合瀬伊賀守の祖が勧請して祭り、初めは合瀬神社と称していたが、天明5年(1785)鏡神社と改めた。明治6年村社となる。祭神大山祇神以下六柱の神は無格杜合祀によって追加。同社の鳥居は寛文元年(1661)建造されている。
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春日神社
祭神 天照大神 武甕棺命 經津主命 田凝姫命 国常立尊 国狭槌尊 児屋根命 大山祇命 保食神 新田義貞 桓武天皇の延暦12年(793)9月21日の勧請で、当社は麻那古村の内字月越に鎮座、麻那古大明神と唱えていたが、永禄7年(1564)仝村の長老今坂美作村民と相謀って、村内の中央の現地に奉遷し、社号を春日神社と称した。明治6年村社となる。祭神田凝姫命外五柱の神は無格社合祀により追加された。 麻那古春日神社境内の狛犬の台座には、献納・麻那古・中原氏子中、明治三十三年四月と刻まれており、これからしても麻那古の内だったと言うことではないだろうか。 しかし、これが大野区の春日神社へ氏子代わりをしていて何時代わったのか定かではないが、大野春日神社の狛犬の台座には御即位記念として、奉献者に岩井俊平・陣内味不味・嘉村美津羅・藤田實・原口善太郎・杵島惣平の氏名が、また灯籠の台座にも同じく大野の人と共に刻まれていて、大正四年十一月十日とある。拝殿内の奉献されている絵馬の1つに中原区の人と名前と大正2年の記入がある。これからすると、明治の終わり頃には氏子代わりができていたのではなかろうか。嘉村美津羅氏は、若くして郡会議員・村長・県議会議員となられ又再度、村長(大正8年〜昭和4年)をされるなど職見も政治力もあった方で、この時代に代わったと思われる。これは明治になって、枝村から離れ大字中原となったことや、麻那古へ峠を越えての参詣など大変であったことなどからではなかったかと思われる。嘉村美津羅氏が手腕を発揮して相談された結果、氏子代わりが出来たようである。
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淀姫神社
祭神 豊玉媛命 海津見神 大山祇命 高皇産霊神 国常立尊 盤長姫命 応神天皇 国狭槌尊 武内宿禰 源義経 猿田彦命 菅原道真 湯気神(祐清法師と第12世清仲律師併せて祀る) 当神社は、小城藩主鍋島月堂の厚い崇敬によって承応2年(1653)創立。明治6年村社となる。祭神大山祇命外十柱の神は無格社合祀によって追加された。昭和63年、神社340年祭執行した。 古湯には諏訪神社と淀姫神社承応2年(1653)創建の2社が同じ社に祭られているが、もと嘉瀬川の側にあった淀姫神社が疫病流行のとき、神域が汚されるということで諏訪神社に合祀されることになった(明治10年頃)。諏訪神社は月野・山崎・天河の産土神と言われ、古湯の産土神は定かではないが、松森神社ではなかろうかとも言われている。
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猿若社
祭神 猿田彦命 勧請年月詳かでないが、命の御神徳を崇敬して当部落の産土神として奉祀したのであろう。明治6年村社となる。
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諏訪神社
祭神 武御名方神 仲哀天皇 産霊神 源義経 媛太命 保食神 当社の口碑によると、野中伊賀守、信濃国諏訪に赴いて、諏訪明神の分霊を請うて、当地に勧請したという。文政6年(1823)拝殿を再建し、明治6年村社となる。祭神仲哀天皇外四柱の神は無格社合祀により追加された。
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天満神社
祭神 菅原道真 応神天皇 源義経 与止姫命 伊弉諾命 伊弉冊命 菊理媛命 武内宿弥 姪子命 菅原是善 天児屋根命 三女神 事代主命 猿田彦命 仁徳天皇 大国主神 上筒雄神 中筒雄神 底筒雄神 彦火々出見命 白大夫神 由緒 社記古文書等よるべきものがないが、社殿棟木に享和3年(1803)文政6年(1823)の両度に再建のことが記載あるので、おそらくその以前の創建と思われる。明治6年村社となった。無格社合祀により祭神応神天皇外21柱増加した。 ※2019年の大雨により社殿が倒壊した。
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金毘羅神社
沿革 北川古賀の祭神として祀る。家内安全、諸病快復、合格祈願、大願成就等に霊魂あらたかとの伝えあり。当社に木ぼりの「カブ」が献納されているが、以前これを持ち出した氏子が、原因不明の高熱におかされたため、これを返納し、詫びの祈願をしたところ、たちどころに熱が下がったとの逸話あり。現在の社は、故岩井俊雄氏が子息の病気快復祈願成就につき献納されたもの。 祭神 金毘羅大将(童子) 創立 不明(やしろの杉は樹令300年は超えていると思われる。) 祭日 大祭は毎年12月10日(現在は直近の日曜日に実施)平月は当番が月2回(1日、15日)掃除献饌を行ない、月1回の氏子茶講あり。 その他 境内に「タメ」あり(「試し」の意)、祭日に開蓋し、中の状況を(水位、虫、濁り等)により、新年の農業環境を予測する。以前は金毘羅神社のみの祭祀であったが、寄せ神をしたため、同境内に山神、岩神、風神、べんじゃさん(弁財天)を祀る。
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白山神社
高野岳にある白山神社は、現在も神仏混交の名残りをとどめている。白山の名は加賀(石川県)の修験道と関係があると考えられる。事実古い鳥居に「白山彦山大権」とある。奥の院の石灯籠には、元禄11年(1698)の銘がある。この奥の院には近年まで山伏の参籠があり修験道場であった。ここは白山や豊前(大分県)の英彦山と同系統の天台宗系道場であったが、弘法大師伝説により、この地が「高野山に似たり」という理由から高野岳と名付けられ、真言宗の良源寺が同居することになった。この社は永延2年(988)この地頭領関屋源八郎義家(刑部卿貞鑑親王6世の孫)によって加賀の白山権現より勧請したと伝えられている。この場所は先記した修験場のあったところで、『鎮西誌』にも「応和二年(九六二)二月二十五日初践開肥前国北山之峰 令修験山入部修行 以牛尾山別当爲先達」などとみえる。関屋源八郎の後裔が明治20年ころまで36代宮司をつとめた。
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楠木神社
祭神 楠木正成 創立 不詳。菖蒲遠江守が足利尊氏の後を追い九州まで来て動静をさぐっていたが、楠木正成が亡くなった事を知り建立したという言い伝えもある。 祭日 10月15日 供日祭り。12月 年末祭り。氏子 41戸。 敷地面積290坪。建物15.18坪。神木 椋の樹(樹齢200年)。法人格の有無 無 九州にのがれた足利尊氏の後を追って動向をさぐりに来た楠正成の家来菖蒲氏が、のち楠正成の戦死を知り此処に楠木神社を建立したと伝えられている。菖蒲にある。
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櫛田神社(大串大明神)
祭神 神功皇后 武内大臣 藤原広嗣 源義経 由緒 創立 不詳といえども、三瀬山の杉神社と同時の鎮座で、祭神も同体である。杉神社は小城山大宮司嘉村左京進宗章が筑前香椎宮から分霊を勧請したと伝えられている。 祭日 10月初旬 秋祭り。氏子 67戸。 敷地面積 601坪。建物20.25坪。
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春日神社
祭神 経津主命 天照大神 児屋根命 国常立尊 保食神 源義経 句々乃知命 斉藤実盛 菅原道真 田凝姫命 息長都井命 由緒 後土御門天皇の延徳・明応年間(1490年頃)小城郡一四か山の地頭野辺田豊前藤原朝臣政房が当社を勧請。明治6年村社となる。祭神国常立尊外八柱は無格社合祀によって追加、同社の鳥居は寛文6年(1666)願主大宮司中村和泉守藤原重貞と銘してある。 氏子 約90戸(大野・中原地区)。敷地面積 412坪。建物 20坪
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白鬚神社
祭神 武内宿禰 嘉瀬川ダム建設に伴い、富士町大字畑瀬に鎮座されていた畑瀬神社を宗教法人化して白鬚神社に変更し、富士町大字小副川に移転新築。 平成15年1月宗教法人白鬚神社設立。平成15年7月白鬚神社竣工。 敷地面積234坪。建物8.84坪。氏子 10戸。 天神様 荒神様 七郎神 九郎大明神。
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子安神社
祭神 大山祇神 磐長姫命 保食神 源義経 安産の神 由緒 栗並地頭栗並因幡守子孫永久の大願で承久(1219〜22年)のころ勧請の由古老の口碑に伝え、神殿、拝殿ともその後の再建といわれている。 祭日 1月元旦祭、9月風祭、彼岸祭、刃の日祭、神宝 古刀1振、法螺貝 敷地面積 632坪。建物22坪。氏子 75戸 本社は社名のとおり安産の神。ここの腹帯を妊婦が腹に巻くと安産と伝える。近くにある夫婦岩は良縁のシンボルといわれている。
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乳母神社
祭神 玉依姫命 大海祇命 創立年代不詳 元亀3年(1572)3月神殿再建、貞享2年(1682)5月拝殿再築の旨該社旧記に見ゆ、勧請の縁由等は不明なり。昭和9年火災により焼失、同年再建築。
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中山神社
祭神 神功皇后 武内大臣 創立不詳 然れども足利氏の族細川頼高の家人嘉村某足利衰運の末、弘治・永禄(1555〜69)のころ古場移住す。すなわち当社を勧請し氏神たること同社旧記に明詳に記載がある。
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藤瀬神社
祭神 中筒男命 底筒男命 表筒男命 猿田彦命 源義経 高産霊命 保食神 古老の口碑に云う、筑前の国宗像郡宮辺津宮ほか1社をうつす。鎮座年記不詳といえども平氏族滅の時といい、あるいは鍋島初祖代という、両伝いずれが是であるか分からない。
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乙宮社
祭神 田心姫命 湍津媛命 市杵島姫命 正徳6年(1716)8月建立
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天満社
祭神 菅原道真 由緒不明
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住吉社
祭神 海童神 由緒不明
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鎌王神社
祭神 伊弉諾尊 伊弉冊尊 口碑では女性神、車石に乗って鎮座と伝う。元亀3年(1573)創建。貞享2年(1685)再改築する。 鎌王宮、このお宮は女性の神様で男の裸姿を嫌い、奉納相撲や、男女一緒に参れば嫉妬して怪我をするとのこと。子供は大好きである。秋の祭りには天衝舞い浮立が奉納される。 此のお宮の始まりは現在字山頭苣木地区の真正面に故飯笹中太郎の山に大きな岩がある。それを車石とよんで、鎌王宮の神様がそれに乗って天から降りてこられたという。
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白石(しらいし)神社
祭神 大己貴命 少名彦命 素盞 命 古老口碑に聖武天皇の御代勧請の由にて中古までは鉄像の神体を安置していたところ、神殿焼失のとき形体相損したので石体にあらためた由
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八坂神社
祭神 素盞 命 由緒不詳 鳥居は享保年代(1716〜35)
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白鬚神社
祭神 武内宿禰 由緒不明
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諏訪神社
祭神 盤長姫命 苣木区の諏訪神社は昭和24年まで大杉の中に囲まれた茅葺きで、神殿だけが瓦屋根であった。今は全部瓦葺きとなった。神殿には男女夫婦神が祭られて女神は子どもを抱いておられる。祭神は盤長姫命であるといわれる。由緒不明。
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猿若社
祭神 猿田彦命 由緒不明
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権現社
祭神 徳川家康 創立 宝永7年(1710) 祭日 12月8日 氏子 吉田芳彦、吉村繁喜 受持神職 嘉村博幸 西谷の権現様として知られている。鳥居をくぐり、杉林の道を登ると大きな岩があり、その前に石の祠と石燈籠があり、その銘に「正徳四年五月吉祥日、吉村彦左衛門重長」の文字がある。創立の由来など不明、祭りは毎年12月8日、その時は神官と宮柱2人はどんなに寒くとも大串川で禊を行い、神前に供物をして祭りを行う。西谷は川を境に東は七郎さん(新田義貞)西の方は権現さん(徳川家康) の氏子で、昔は3日間くらい祭が行われていた。現在、祭りで禊をするところは上無津呂の淀姫神社と西谷の権現さんのみといわれている。
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九郎堂(淀姫神社)
古湯の淀姫神社境内に九郎堂がある。九郎堂は古湯の天河(字姥ケ谷)に建立してあったが、明治9年(1876)の神社合祀にさいし現在地に移転したものである。 延元元年(1336)、後醍醐天皇を擁した肥後(熊本県)の菊池武敏、阿蘇大宮司惟直とその弟九郎惟成らは、筑前多々良浜(福岡市東区)に足利尊氏の軍勢を迎えうったが、戦い利あらず、敗れて、小城の千葉氏の領内へと逃れた。しかし寝返った千葉氏によって惟直は、白坂峠(小城、富士町の町境峠)にて戦死をした。九郎惟成も重傷を負ったが家臣の原隼人に背負われ、命からがら古湯に逃げ隠れた。惟成の傷は古湯温泉の湯で回復し、この地に九郎堂を建立して永住したと伝えられる。原隼人の子孫と伝えられる古湯地区の原姓の人達により九郎神社の碑の前で九郎さん祭りが行われていた。 阿蘇九郎惟成の落人伝説は富士町のほかに七山村、浜玉町、厳木町など天山北麓に伝説として残っている。
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床裏大明神
昔から天然痘の神様として、昭和の初め頃は「ホウソウ」が流行っていたので、お参りが多かったが、婦人会で御礼を作って売っていたそうである。そばに臨済宗東光寺があったが現在は廃寺になって市川の西福寺に所属。御地蔵さんは苣木古賀、持万古賀2箇所にあって、それぞれ男の子によって8月16日に灯付けを行い各戸より小豆をもらい炊いてお参詣けいの客を接待する。 祭事 旧暦8月15日の灯付け、この日を苣木区の祇園祭りとしている。