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[神社仏閣][神社][勧興校区]は8件登録されています。
神社仏閣 神社 勧興校区
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正一位稲荷大明神
弘道館記念碑横にある「正一位稲荷大明神」である。正一位とは律令制下、朝廷より諸臣に授けられた位階のことで、官人の地位を表す等級として一位から初位の位階がある。 奈良時代中期以降、この位階が人に対してでなく、神にも授位されるようになった。これは神階と称して、諸臣に与えられる位階制度に倣うものであった、両者に直接的な関係はない。 稲荷神社については、稲荷神に対して従五位下が授けられ、その後も進階を重ね、天慶5年(942年)に諸神に対しておこなわれた授位で正一位に叙せられた。
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龍造寺八幡宮
慶長12年(1607)、初代藩主鍋島勝茂の時に旧城内にあったものが移転された。 鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祀ってある。 又、境内には「楠神社」があり、その傍らには「義祭同盟」や「非理法権天」の碑も建立されている。 「佐嘉城廻之絵図」などによれば、社殿は現在よりも南の方に位置し、その境内もかなり広かった。
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楠神社
安政3年(1856)、佐賀藩執政鍋島安房が楠公像を遷し、八幡神社の境内に尊像を祀り、「楠社大祭」を執行した。これが現在の楠神社のはじまりである。 奥の神殿には、楠正成、正行(まさつら)の父子像が御神体として祀ってある。 毎年、5月25日に例祭が行なわれ、昭和10年には大楠公六百年祭が盛大に営まれ今日に至る。 楠正成がその旗に印した文字が「非理法権天」である。この記念碑は、楠公神社のすぐ前に建っている。 非は理に勝つこと能はず 理は法に勝つこと能はず 法は権に勝つこと能はず 権は天に勝つこと能はず 天は宏大にして私無し 人生幾多の波瀾曲折あれどついに天を欺くこと能わず又、天に逆らうこと能わざることを意味する言葉である。
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鳩森稲荷神社
元禄14年(1701)、鍋島綱茂公の心願により江戸屋敷桜田郷に鎮座されていた烏森稲荷大明神を勧請された神社である。 伝記によると綱茂公は、御嫡男がなく心痛され江戸にてかねてより信仰篤かった烏森稲荷神社に願をかけられた。その願いが神に通じて御嫡男を得られたことから佐賀の地に勧請されたことに始まる。 その後、代々の藩主も深く信仰されるところとなり、参勤交代の折には道中の安全と江戸詰めの安泰を祈願されることが慣例となった。
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白山恵比須神社・すずらん橋
白山恵比須神社は、白山町「すずらん橋」を南へ入った路地の奥にある。建立は、昭和8年頃で白山恵比須班により、毎年の2月と8月に祭りが行なわれ、今日でも厚い信仰心に支えられている。 そのお室の中には、珍しい木彫りのエビス様と大黒様の双体像がまつられている。うろこの一枚一枚まで丹念に彫られ、見事な鯛を重そうに左手に抱きこみ、右手には竹のさおを握って満足そうにほほえんでいる。
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唐人神社
慶長4年(1599)、鍋島直茂は李宗歓に十人扶持を給し、城北愛敬島の一部に「唐人町」の町号を付けた。これが「唐人町」の起こりであり、李宗歓は海外貿易の永代御用商の免許を得て唐人町の発展に寄与した。その後、宗歓は自宅の一角に石碑を建て故郷を偲びこれが「唐人塚」と呼ばれるようになった。この石碑が昭和30年に道路拡張の為に現在地(唐人一丁目)に移転され「唐人神社」として祀られるようになった。同43年7月には、鳥居も寄進され今日に至っている。
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佐嘉神社
昭和8年(1933)、佐賀藩10代藩主・鍋島直正(閑叟)を祭神に、松原神社に隣接して造営された。直正の御霊は、松原神社から遷座され、社格が別格官幣社であった。昭和23年(1948)、11代藩主・直大も合祀された。境内には、カノン砲、アームストロング砲の模型が展示されている。毎年春・秋4月10日、10月10日の夜から11日、12日にかけ日峯さんとあわせてのお祭りで賑う。
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松原神社
安永元年(1772)、佐賀藩8代藩主・鍋島治茂が、藩政改革を始める前に藩祖・直茂を祭神とする社を建立し、直茂の戒名・日峯宗智大居士から「日峯社」と称した。文化14年(1817)、直茂の祖父・清久、同室・彦鶴を合祀し、「松原神社」と改称された。その後、龍造寺隆信、政家、髙房、初代藩主・勝茂、10代藩主・直正、11代藩主・直大も合祀された。直正は昭和8年(1933)、直大は昭和23年(1948)に、佐嘉神社に祀られるようになった。神門に木造河童像が掲げられていた。毎年春・秋の4月10日、10月10日の夜から11日、12日にかけて、日峯さんと呼ばれる祭りが開催されている。