掘江神社の創建は明らかでないが、日本武尊や神功皇后にまつわる地名説話の社伝がある。
この神像群には、一国一社の国名神号が墨書されている。これは後宇多帝が蒙古との合戦のとき、戦勝祈願のため納められたものと伝えられている。
神像はすべて一本彫製の木造で、千栗・河上・当社の肥前三社の神像を除き、顔面のみを現わして体部は円筒形に彫り放した実に素朴な彫像であって、像高20~25センチメートル、坐像か立像かも判明しない。神像群の総数は、68像が保存されている。すべてに墨書があり、神名や全国六十余州の国名などが記されている。クスノキの枝を丸彫りしてつくったもので、一部には表皮がのこり、大きく干割れているものもある。
肥前国の3体の神像(掘江大明神像、河上大明神像、千栗八幡大菩薩像)は、他の神像より丁寧につくり、永正8年(1511)の製作年と作者元笠の名が記されている。専門的な技巧をこらしたものではないので、作者の元笠は職業的な仏師ではないと推測される。
当時の民間信仰を知る格好の資料で、全国各地の神仏を一箇所でつくったものとしては、貴重なものである。