検索結果 RESULT
[建造物][地蔵・銅像・石塔][諸富町]は3件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 諸富町
-
水神・海神
水を司る神は水神・水天・川神・龍神などと呼ばれる。水の神は日常の生活用水のほとりに祀るもの、水田の近くや灌漑用水のかたわらに祀るもの、海辺に祀るものなどがある。 日常の生活用水のほとりに祀る水の神は、野菜や食器を洗ったりするカワジ(水使い場)の近くに自然石や「水神」と刻んだ石祠を立てたりしたもので多くは屋敷神の一つとして祀られている。 春の初めに行われる川神祭りは、水への感謝と子ども達が水難を免れるための祭りで、ヒャーランさんとも呼ばれ水神への願いが込められている。水死はカワソウ(河童)に引きこまれて溺れると信じられていた。カワソウは川や池、沼などに棲むといわれる空想上の妖怪であるが、水神の零落した姿ともいわれている。 大中島の弁財天に、カワソウの手と称す木製の彫物が祀られている。伝承によれば昔、カワソウが弁財天に捕えられ、大中島の子どもは絶対にさらわないと約束をして離されたという。 弁財天はもともとインドの一地方の河(川)神として尊崇されていたものが、仏教に取り入れられ農業神、水神として信仰されるようになったものであろう。町内では海に近い集落に多く祀られている。 渡端の氏神社弁財天は、一時大堂神社に寄宮されていたが、子どもの水難事故があいついだので再建立したもので、今でも毎月15日と29日に主婦により弁財講が行われている。 大中島の弁財天は、昔大洪水のとき、中川副村中津から流れてきたもので、中津側と大中島において返す返さぬの争いがあったが、藩公がこれは因縁あって大中島に流れついたのだから大中島に祀るべきと裁定をくだしたといわれる。境内には正保2年(1645)、安永7年(1778)の石祠も祀られている。 徳富の松土居の弁財天石祠は、建立年は不明(台座には昭和6年12月吉日とある)であるが石祠中央に「辨才尊天仰願」とあり、右側に「肥前佐嘉走津新田鎮座守護」左側に「國家福禄長保安全」中央下に「海濱波穏民竈烟連」とある。 いずれも弁財天の文字を刻んだ石祠であるが、西寺井安龍寺には江戸時代のものと思われる天女形の8臂(8手)の銅造の坐像があり、当時の信仰を知る貴重な資料として佐賀市重要文化財の指定をうけている。 水神の一つに龍を祀る龍神がある。法華経に龍王は海中に住して雨を司ると説かれているが、民間信仰においては、これに基づいて漁の神と雨乞いを祈る神と二面性を持っている。漁村では龍神または龍宮と呼び、農村では雨乞いの神として祀っており、諸富津や橋津に八大龍王社の石祠が祀られている。 ※写真は大中島の弁財天
-
上下地区天神さん
今を去る百数十年前、上下のある有志の人が家運祈願のため今の場所に設置されたものと聞く。それ以来、年々通る人ごとに手を合わせ拝んできた。通称天神さんといっている。花を供えお水をあげてきた。特に北小路の人は通路にあるので、頭を下げ礼拝をした。また当番で7月の旧盆には祗園さんをして、灯籠を下げ、煮豆をあげ、そろって食事をする。地区では2月のいわし祭りや4月29日(昭和天皇誕生日)におこもりをする。おこもりの起源は古く、90年前から親に連れられて重箱弁当で参加した人もいてひゃーらんさんの祈願詣りに子どもを連れて詣った。神事には神前にシートを敷き、お供えをして、村中が子どもを連れて詣り、外孫まで参加する。神事が終わると神塩を頭にいただき包紙して持ち帰る人が多い。交通安全、家内安全も合わせて行われる。神事が終わると副島トク氏が水難にあやかる話を子ども達にする事にしている。その後は公民館にて弁当を開き親睦会をして夜までくつろぐことになっている。お花は交代で供えるのでいつも美しい。最近は小林氏が花作りをなさるお陰で助かっている。上下天神はこの様にして祭りが行われ水難よけ、交通安全、入学祈願、五穀豊穣祈願等、みんな楽しくそれぞれの願いをして公民館にて懇親会を行う年中行事である。天神さんは清掃、美化し地区祈願の唯一の神様である場所である。(老増先生の資料より)
-
荒神
カマド(ヘッチィ)の神は荒神さんといってウウガマ(大釜)のそばの柱に小さな祠をもうけたり、ウウガマそのものを荒神として祀ったりする。 食生活を支える重要な場所であり、文字どおり荒々しく祟りやすい神でもあるので「荒神さんに足なんかくっぎ、バチかぶっ」といって足をのせたり腰かけたりすることを厳しく戒めた。