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[建造物][地蔵・銅像・石塔][嘉瀬校区]は5件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 嘉瀬校区
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ナキビス地蔵とアガイ地蔵
中原公民館横の広場に、赤い胸当てをつけたナキビス地蔵と呼ばれる背丈約60cmの石造仏が祀ってある。ナキビスというのは涙脆くてちょっとしたことですぐ泣き出す人のことを言う佐賀の方言である。夜泣きをする子供や泣き癖の強い子供を連れ、お菓子などを供物としてお参りするとナキビスが治ると言われている。以前は、田んぼの中に田の面より少し小高い林があって、その林の中に祀ってあった。昭和58年ほ場整備事業の時に現在の地に移され、今も手厚く祀られている。 有重の若宮社の境内に、三体のアガイ地蔵が、高さ3.5mほどの土盛りの上に祀ってある。この地蔵は高い所に上がるのが好きな地蔵といわれ、お参りする時に土塊をあげると地蔵が大変喜ぶ。そんなわけで昔から土塊を持ってお参りしていたので、土盛りがだんだん高くなって今の高さになったと言い伝えられている。昔は馬に鋤を引かせて田を耕していたので大きな土塊を簡単に手にすることが出来たのである。今は土塊をあげるものはほとんどいないが、数年おきに近辺の者で嵩上げをしている。
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千人塚
千人塚は千人塔ともいう。藩政時代の刑死者の菩提を弔うために、刑場の一隅に建てられた供養塔のことである。嘉瀬町を西に外れると旧長崎街道が嘉瀬川堤防を上っていた。そこから凡そ100m南へ行くと南側の河川敷にこの塔が建っていた。 辺り一帯が鍋島藩政時代の刑場跡である。近年森林公園の建設にあたり千人塔は妙福寺に移されたが、現在は、それとは別に森林公園の北西部にも建てられている。およそ270有余年前、妙福寺の日仙上人が夢想をうけて刑死者のため供養の卒塔婆を建てたのが最初の因縁であった。その後明和3年(1766)8月同寺の日潮上人によって今日の石碑に改建された。
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朝鮮出兵の戦勝祈願塔
塔の建立は朝鮮出兵時で、嘉瀬津在住の大富豪平吉弥次郎刑部之亟である。藩主の鍋島直茂公の側近として仕え、朝鮮出兵時の軍用金を全て賄った。豊臣秀吉に対し、鍋島直茂は大いに面目が立ったと、のち、徳川幕府は鍋島藩に対し、35万7千石の禄を与えた。その基盤を平吉弥次郎が作った。(1613年慶長18)平吉弥次郎のこの功績に対し、鍋島直茂公は平等院、お志賀さん・熱の神さんの建立を許可し、免税にしたと記録有り。
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若宮社 アガイ地蔵
若宮社の台座に「大正13年12月建立」と刻んである。「太神宮」の石碑に「宝永五戊子天十一月吉祥日」と刻んである。2mほどの土盛りの上に3体の地蔵(石造)を祀る。
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石造七地蔵
1874年(明治7)に、政府は仏主神従を神道重視にし、「お地蔵さん」の首をはねのけさせた。どうしてか荻野の石造六地蔵は首がついている。何故だろう。 七地蔵は、禅寺の和尚さんより聞く辞書には見当たらず。 ※写真は徳善院の石幢地蔵塔。