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[建造物][地蔵・銅像・石塔][三瀬村]は7件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 三瀬村
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疣(いぼ)なおし地蔵
疣なおし地蔵は平松地区と池田地区にまつられている。 疣という語は飯粒(いひぼ)の転じたものといわれ、皮膚にできる丸い小突起物のことである。一種の皮膚病で、現今ではハトムギを煎じて飲んだリ、薬をつけたりして、簡単になおすことができるが、治療薬の発見されていなかった昔は、1つできると次々に数がふえ、なかなか根治しにくい頑固な出来物であったので、痛みはないが気味の悪い厄介な皮膚病とされていた。 むかしの人は、疣にかぎらずなおりにくい病気にかかると、神仏への祈禱や呪い(まじない)をやればなおると信じたので、地蔵尊や薬師如来をまつって祈願する風習がひろく各地に普及した。 とくに地蔵はあの世とこの世との境にあって、冥途におもむく者を救うと説かれたので、ついには、地蔵に祈って現世の利益を求める風潮を生みだした。 とげぬき地蔵、夜なき地蔵、延命地蔵など、祈願の内容に応じた名前を持つ地蔵も多く、村内では山中の脚気地蔵、三瀬峠の聾なおし地蔵、池田・平松の疣なおし地蔵なども、その例である。なかでも、平松の疣なおし地蔵は、中央に石祠があり、その左右に2本の六地蔵が合祀されているところに特色がある。六地蔵は、六道(天上・人間・修羅・地獄・餓鬼・畜生)のいずれにも現われて、人々の苦悩を救ってくれると説かれているので、平松の場合は、この世でかなえられないならあの世ででも救われたいという強い願いをかけたものであろう。左側の六地蔵は座像、右側のは立像が彫られている。中央の石祠の中には衣冠東帯をつけた座像が彫られ、古老の伝承によれば、大江道寛という人を祀ってあるとのことであるが、疣なおしというだけでどのような人物であったかは不明であるが、来往するとき白馬に乗って来たと伝えられている。 大江氏といえば、三瀬氏や豆田氏の遠祖であるので、この大江氏もその一統であったかも知れない。 この場所は、むかし寺のあった跡といわれ、一帯には文化・文政年代まで園芸植物として玩賞されたカラタチバナが散見される。 石祠の中の像の姿や付近の状況から推察すれば、大江道寛という人物は、知徳のすぐれた神宮寺憎(神仏混淆時代の)で、疣なおしなど医術の心得もあり、村人から深く尊敬されていたのであろう。 六地蔵を左右に安置したのは、霊験の強化を願ったものと思われる。 疣なおしを祈願するときには、年の数だけの小石を拾ってきて、それで疣をこすってからお供えして祈ることになっていたという。池田の疣なおし地蔵は、同地区中央辺から薙野川(現在高瀬川と呼んでいるが、明治初期まで薙野川と呼んでいた)を渡る細道の左向う川岸に建てられている。写真のような頭の尖った自然石に「南無地蔵大菩薩高嶋平之允」と刻んだ石碑である。建立した年月は碑文の右肩に印されていたと思われるが、磨滅風化してはっきりしない。 地蔵建立の由来は不明であるが、橋のかかっていなかった時代には飛石伝いに川を渡ったとみえて、橋の下には今でも大きな飛石が顔を出している。少しの雨でも水をかぶって、渡るのに危険を伴ったであろうし、長雨や集中豪雨が降れば、飛石が流されるおそれもあったであろう。そこで、この地域の有力者高嶋平之允が、飛石の安泰と村人の安全を祈り、私財を投じてこの地蔵碑を建立したとも考えられる。また、平之允の近親者に疣ができて困っている人がいたのかも知れない。 地蔵は元来、あの世、この世の別なく人間の苦悩を救ってくれると信じられていたので、当時根治しにくかった疣の治癒を願って、この地蔵を建てたとも考えられる。 とにかく、この地域の人々は今でもこの碑を疣地蔵と呼んでいて、地蔵碑の前には往時供えたと思われる小石がそのままに残されている。
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向合い観音
向合い観音は、国道263号線の南の村はずれ、大和町との境の向合い峠にまつられている。この峠の道は、むかし、奥山内(三瀬村)から佐賀方面へ出入りする旅客の主要な往来とされ、北の出入口三瀬峠とともに旅客難塗と形容されていた。長雨・日照り・降雪の時季には旅客が難渋する道であったからである。旧道はいまの国道よりも高めのところを通っていたので、観世音は路面からあまり高くない位置の西側木陰に東を向いて座していたが、国道になるとき路面が切り下げられたため、いまでは路面よりもずっと高い切割りの上にあり、参詣する人のために、梯子を立てかけたような細長いコンクリートの階段が設けられている。 道路の東側には、国道開通記念碑が建てられているが、その右上(南側)杉林の端の草むらの中に、古ぼけた3つの小さな石の碑が、西を向いて立っている。この石の碑と観世音が道路をはさんで向き合っているので向合い観音と呼ばれ、この峠を向合い観音峠または向合い峠というようになったという。 この観世音の由来について、古老の伝承によれば、戦国時代に肥前国主龍造寺隆信と北山内の驍将神代勝利が、たがいに勢力を争ったとき、隆信は大軍を擁して神代勢と戦ったが、1勝1敗をくりかえすばかりで、なかなか雌雄を決することができなかった。そこで隆信は謀略を用いて、戦かわずに神代勝利を亡きものにしようと考え、三養基郡綾部城主(姓氏不明。以下綾部氏とかく)ならびに神代氏に従属している鳥羽院城主西川伊豫守の両氏と密約を結んで味方につけ、神代勝利殺害をくわだてた。 伊豫守は、ひそかに山内の同志を募ろうとしたが、そのことがかえって禍いし、謀判の企てが事前に露見してしまった。 それとも知らない伊豫守は、永禄5年(1563)9月9日、恒例の重陽節句参賀のため、何食わぬ顔をして三瀬城に登城した。参賀の式礼もすみ、祝宴がまさにはじまろうとするとき、ときを計らって満を持していた神代氏側近の武士たちに取り囲まれ、必死の抵抗も空しく、滅多切りに討ち果たされてしまった。 神代勢は間髪を入れず伊豫守の本拠鳥羽院城ならびに同じ一派と目された腹巻城を急襲したため、両城ともにひとたまりもなく陥落し、城内のものはほとんど戦死した。 このとき、謀議のために鳥羽院に来ていたといわれる綾部氏は、血路を開いて逃げのびようとしたが、道を暗まして向合峠にさしかかったとき、神代勢の伏兵に発見されて討ち取られたという。 定かではないが、峠にある三つの石碑は、討ち取った綾部氏主従を埋葬して立てた墓碑ではないかといわれている。 綾部氏が討たれたあと、一人の女性が向合峠西山の麓に庵を結び、仏門に帰依して念仏三昧に入り、その菩提を弔ったといわれ、その屋敷跡も現存し、地名を比丘尼田と呼んでいる。 比丘尼の亡くなったあと、峠近くには幽霊が出るという噂がたち、不思議なことに峠を越す人々や牛馬の事故が頻発し、いつまでたっても災いがあとを絶たなかった。 200余年も絶った後々まで噂は消えず、事故が起こるたびに、これは死霊のたたりであろうと、人々におそれられた。観世音はこの迷った霊魂を鎮めて災いを除き、峠を越す人や牛馬の安全を守っていただくためにまつられたもので、道路東側の三つの石碑に向き合わせて西側路傍同高の位置に安置され、人々はこれを向合い観音と呼んだ。 観世音の石祠には、 安永九年庚子 十二月吉日 施主 杠山 横尾久左衛門 と刻まれている。元来、観世音は大慈大悲の徳をそなえ、世の人の求めに応じて、その苦悩を除き解脱を与えるといわれている。三瀬村内では古くから観世音信仰が一般に広く普及していたとみえて、ほとんどの部落内に観音堂が建てられ、木彫りに金箔をほどこした観音像が安置されているが、向合い観音は石祠の中に石の観音像が安置され、しかも村境に鎮座されているところを見ると、前記由来のとおり、道路の安全を守る道祖神や馬頭観世音のような役割をも果たすものとして信じられてきたようである。
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地蔵堂 (脚気地蔵)
一、本尊 地蔵菩薩 一、由緒 室町時代の明徳4年(1393)に創祀された地蔵尊である。 縁起書によれば、文永元年(1264)野田周防守清秀が当国に下向し、杉屋敷に露営ののち、改めて山中の地に宿館を構えて城主となり、同年9月三瀬山を掌領した。嫡男野田次郎大江房儀は当山中の地を去って宿に館を移し、河内峰の嶮に城郭を築いた。 その子野田三郎大江家房は、長谷山観音禪寺の宗師として禅門に入り、明徳4年に宗祖の霊位の大法要を営み、あわせて小城山大宮司賀村左京進源宗章と談じ合って、祖父のいた山中の館跡に一字の堂を建てて地蔵尊を安置し法要祭祀を行った。それ以後世人は山中地蔵尊と称し、領内領外の人々に知られ、ことに宗祖清秀公以降はもとより、神代氏を扶助するようになってからも、健却万里征戦に従った野田氏(後の三瀬氏)一門の功労を知る諸郷の民は、地蔵尊の霊威によるものと尊崇し、祈願をこめるものが多かった。降って享保9年(1724)甲辰 三瀬治部左衛門大江房成(数代前改姓)は老朽した堂宇を再修した。また、文政6年(1823)癸未 4月吉日に崇尊者高木氏胤(関所役人)は標道示塔を建立して寄進した。後世この地蔵尊を「脚気地蔵尊」とよぶようになった。いまでも脚気に効験ある地蔵様として県内外からの参詣者が絶えない。 一、堂宇 弐間に三間 一、境内 102坪 附属地山林5反3畝廿歩 一、境外所有地 田1反2拾2歩 字軽井谷 地価 金7円51錢3厘 一、信徒人員 28人
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洞鳴山妙仙観音
延宝9年(1681)3月12日 この事は別章に詳しく悲恋物語としてのせている。 本願 中野仁右ヱ門・芹田弥右ヱ門・高島又左ヱ門・高島徳石ヱ門・徳川織右ヱ門・広滝六太夫・同妙正古川五兵衛重治・土師村・七間谷村・落屋敷村女人講中
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妙日庵
詰の瀬にあったが寺趾について知る人はない。今日釈迦堂と呼ばれている石仏2体のある場所ではないかといわれている。台宗末寺であったがみるかげもない。1体の石仏は釈迦の立像、もう1体は地蔵菩薩の坐像であるが首がなし、時々かけられる子供の「よだれすけ」が無情に淋しい。 或いは観音堂(年時不詳・本尊観世音)が妙日庵ではなかったかという人もあって定かでない。
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馬頭観世音
文政6年(1823)6月11日、施主、久保山住人副島吉左ヱ門三瀬峠の俗に「聾なおし地蔵」のそばにたてられている、唯一の馬頭観音。 向合観音さんで知られる向合峠には、佐賀にむかって右上に、施主、下杠山住人・横尾七左ヱ門になる観世音(年月不詳)が向い側の板碑にむき合っている。何の板碑かわからない。 その他薊の佐古、原宅上の観音堂、釜頭の観音、広瀬大明神境内にある観音など年時不詳で知る由もないが、神在、川向いの子安観音堂は卒塔姿の堰に人柱となった旅僧の鎮魂観世音ではないかと思われてならない。 中鶴・不動上の夫婦橋手前左上の田んぼのそばに地蔵尊が坐っている、川に溺死した子供への手向けのものと聞かされた。 杠の寺の下大日橋には、寛政3年(1791)2月吉目、本願野口十兵衛・西村卯兵衛銘の大日如来の石塔、最も新しい地蔵尊、元村長庄島喜六が3男令息佐三の水死を期に、ダムに続く水死事故のなくなることを願って立てた「佐三地蔵」、それ以来溺死はピタりと止まった、民間信仰のきずなもこんなところにある。ゴルフ場建設の折、小学校向山にあった観世音菩薩、寛延2(1749)4月吉祥日、願主詰瀬中とあったもの、今原伝照寺に預けられたままとなっている。 唐川公民館向いにある六地蔵は、ダムの湖水に沈みつつあったもの、享保8年癸卯(1723)10月天吉日、施主沙門伝益の銘あるもの、藤井尚弘氏によって引き揚げられ現在地に安置されたもの、1つの文化財が消えるところであった。 以上のように村内における神社・寺院・雑仏の順に宗教の実状をみてきたのであるが、『神埼郡郷土誌』にある次の文をもって結びとする。 「要するに本村に於ては神に対しての崇拝稍薄きも、仏教に対する信心厚く、神棚を祭らざる家はあるも仏檀を安置せざる家はなし、少女の数珠を手にして仏参するが如き珍しからず」と記している。
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中鶴厄神
寛文13年(1673)に創立された石祠で、扉を開けば蓮台に座して合掌した仏姿の御神体が刻まれている。 口碑によれば日本3厄神の一つであるといわれ、地域の人々から厄払いの神として崇められ、参拝者も絶えない。 毎年陰暦1月15日に厄神祭が行なわれる。珍らしい祭りである。