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[建造物][橋・井樋等][循誘校区]は44件登録されています。
建造物 橋・井樋等 循誘校区
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思案橋
当時、材木町は武家屋敷諸用達を務める商家町で、昔の唄に『思案橋の名物は、蔦屋の一粒金、釜屋のビンツケ、野中烏犀圓現金掛け値なし』とか歌われていたようである。蔦屋では一粒金の他にも文房具.紙.うるし.金箔などを売り、釜屋(西村油屋)ではビンツケ(日本髪を結うときに使うもの)の他ろうそく.元結い油を売り、松永呉服店や野中烏犀圓等町民の生活物資を売る店で賑わっていた。当時のことばに『こげこげ舟端近い、いえいえ思案橋近かし、びんつけモテエ(元結)は安し』とはやったといわれているが、これは、『舟をこげこげ。材木、紺屋、今宿の舟つき場は近いよ。思案橋には、ビンツケ、元結が、安くてたくさんあるから、髪を結って、おしゃれができるよ。』との意味でこの周辺は、長崎街道筋ではあるし、多くの商家が立ち並び、また今宿に出入りする船のりの人達が遊んだり、佐賀名物などの買い物をするなど大変な賑わいを見せていたようである。思案橋と名前が付いたのは一説によれば、明治の終わり頃まで、この橋の側まで舟がきていたので、『ここから遊郭は近いのでさてさて行こか、帰えろうかと』この橋のそばで迷い思案(考える)したのでとの話もある。昭和18年8月戦時下で統制経済が厳しくなっていく中で、思案橋のうどんとして有名だった『うどんの橋口屋』が200年の歴史の幕を閉じることで当時の新聞に綿々とその昔を偲び廃業を惜しむ声が次の通り大きく報道された。『軒のひさしが、ほのかな陰影をそっと窓辺に落としている。昔造りの建築情緒・今は過ぎし日の華やかな1頁を語る、その名も床し思案橋のうどんの橋口屋が……の書き出し『思えばちょんまげ時代の昔から今日まで200余年の長い間、佐賀市民はもちろんのこと、近郷近在の人達にまで馴染まれていたうどん屋だけに、その廃業はわけて感慨無量のものがある』と惜しんでいる。また、この橋の側で酒造業を営み『佐賀馬鉄』を誘致したり、その当時、佐賀市の財界人として有名な伊丹家の伊丹彦次郎、田上源太郎、福田慶四郎、中野五郎氏等とともに会社創立委員として活躍するなどしていた、当時飛ぶ鳥も落とすといわれた牛島町思案橋の、美目秀麗の青年実業家『下村辰右衛門』として有名であったようである。後に多額納税貴族院議員を勤めたが、循誘校区から国会議員に出られたのは、これが始めてであり今日までその後は国会議員は出ていない。あの『次郎物語』の作者で有名な下村湖人の養父ともいわれている。
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晒橋
元呉服町と蓮池町の境で『錦通り』とも一時呼んでいたところで、光明寺の前にある橋がいわゆる『晒橋』である。この橋は、大財町副島病院南の大財橋より少し西より、願正寺の東を南に流れて、愛宕神社東を通り、晒橋から裏十間川に入る『呉服町水路』に架かる橋で、橋の欄干には往時を偲ぶガス灯が設置され復元されたのである。現在の橋になる(昭和の初期)前は、松原神社の石橋を小さくしたような形の石の太鼓橋であった。現在の橋に架け替えられた時に、県内で初めてアスファルト舗装道となって、市営バス(マイクロ)がとおった。また、橋の北側には「たなじ」があって、小さな川舟がつくこともあったし、その側に人力車の立場があった。(龍ヶ江弘誓氏談)この橋の由来は、昔ここのところに罪人を縛り、罪状を記した木札を吊し、この橋を通る人達に見せしめのため終日晒したことによると云う説と、この横の50m位上流で窓の梅の東が、かつて今宿からの最終船着き場となっていたことから、この川で布を晒したとの一説もあるが、南北の呉服町水路は『真宗堀』とも呼ばれる人工堀のため後者の説は薄いようである。このような罪人の晒場所は、ここのほか唐人町の土橋や本庄町井樋の上辺にあったらしく、また、この通りは昔構口から佐賀城下を通る長崎街道筋に当たり、この橋の西北に『本陣』の屋敷跡があった。『本陣』の屋敷があったすぐ側であるため、打ち首の晒し場所であったとは考えられないようで、今の軽犯罪者の晒しであったようである。かつてこの町は蓮池町と呼ばれていたが、その後千代町に変わり、現在ではこの橋の西側を呉服元町に、東を柳町に町名が改正され昔より有名だった蓮池町の名前は完全に消えていった。この蓮池町一帯は昔々数軒の算盤屋があって繁盛し、遠く関西方面にも取引きがあったということである。この橋から上流400m位の川を『新堀』とか『真宗堀』とかで呼ばれて、また、愛宕神社東の通りの路地を『新堀端』ともいわれ、佐賀藩と願正寺との深い関わりのあるところでもある。また、橋の側の光明寺第12代住職龍ケ江良俊師は、あの佐賀で有名な唄の『梅干し』の作詞者である。
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呉服橋
勧興小学校南から循誘校区に入る最初の橋で、すぐ近くには『大財聖堂』に因んだ聖堂橋がある。この橋は戦後呉服町角のロイヤルレストランから交通局東側を通る道路が戦後建設されたときに架けられた。 佐嘉藩主鍋島光茂は、元禄4年(1691年)城内に『鬼丸聖堂』を、武富廉斎が元禄7年(1694年)大財町六反田に敷地約1.400坪に『大財聖堂』を建てた。元禄時代から幕末までの間約170年余り学問を広めた。現在は、聖堂跡に、石造の記念碑が建っている。
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大財橋
大財本通の副島病院や、元山崎石油店の南に架かる橋である。この十間堀川を境にして、南は旧佐賀市、北はかつての神野村とに分かれていた。 大正11年に佐賀市と神野村が合併したものである。
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清心橋
十間堀川は、循誘小学校の北を経て清心院の南をとおり二次井樋に至るが、清心橋は、川のすぐ北側にある清心院に因んで橋の名前とした。なお、清心院には佐賀市文化財指定の『不動明王』の木彫像がある。
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欄干橋
松原神社の東側に『欄干茶屋』があり、藩主の休息所となっていた。また、幕府の使節などと面接する際の迎賓館としていた。光明寺の北に『本陣』があり茶屋との連絡も便利であった。この欄干茶屋に因んだ橋である。橋の北に佐賀銀行呉服町支店があった。かつては佐賀中央銀行本店で、県内2大銀行の佐賀興業銀行と昭和30年7月両銀行が合併して、佐賀銀行が創立された。
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明治橋
馬鉄の開通式が明治37年2月28日、この明治橋の始発駅で盛大に式典が行われ、大隈重信候も出席したといわれている。 また、現在の福島薬局のところには西肥銀行があった。昭和3年佐賀百六銀行と合併した。
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成就院橋
現在の八坂神社南裏十間川に架かる橋である。承応3年(1654)の絵図には橋が記載されている。昔は橋の西北に成就院と、盲僧成就院の屋敷があって、一かどの修行場だったが明治維新のとき衰滅した。
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常喜橋
循誘小学校の校門から南に突き当たりにある橋で、明治22年の『市制施行当時之佐賀市街図』にはすでに記載がある。
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旭橋
常喜橋のすぐ側の裏十間川が南に曲がるところにあって、明治22年の『市制施行当時之佐賀市街図』には、旭橋はないので、牛島町から思案橋等の方面に新道路を建設したときに架橋したものと思われる。
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劇場橋
佐賀劇場は、与賀町の喜楽座と共に佐賀市民の娯楽の中心施設として長く市民に愛され親しまれた。この建物は、福岡で開催された九州八県連合大博覧会の会場施設を大正5年頃移設整備したものであって、始めは改良座と呼んでいた。昭和元年に佐賀劇場と改められた。時代の推移とともに映画館に娯楽が変わり昭和41年に長い歴史の幕を閉じた。
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一の橋
承応3年(1654)「佐賀城廻之絵図」によると裏十間川の材木町の最北部に架けられた一番目の橋で、佐賀江までの幾多の橋のなかでも大切な橋のようであった。 この橋の近くに、佐賀から久留米まで軌道を敷設する会社の『肥筑軌道』の創立事務所が設けられていた。全線開通に至らず、大正12年(1923)巨勢の高尾から千代田町の崎村まで、約10年近く運転されていた。しかし、昭和9年(1934)8月運転を休止し、やがて廃止された。
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材木橋
貫通道路が着工された昭和7年(1932)に東の紺屋橋と同時に新しく架橋された。橋の親柱は実に堂々としている。
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中の橋
横目橋から100m北にある橋で、明治時代の代表的石橋である。この橋は裏十間川のほぼ中間に位置しているのでこの名が付いたものと思われる。この西は武家屋敷で中の橋小路と呼ばれていた。
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横目橋
材木橋から二つ目の橋で、この裏十間川を東西にはさんで西は武家屋敷のある町で、東は商家の町人町であって、お互いに対立や敬遠の意識が交わった橋である。この橋はじろり橋と呼ばれ、横目は当て字であるようだ。 佐賀市で珍名の橋はひゃあらんさん橋(川副町東南里)、酒楽(しゅらく)橋(本庄町袋)、蒟蒻(こんにゃく)橋(中の館)、かわそう橋(鬼丸)などがあるけれども、じろり橋が特に目立っている。
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了関橋
この橋は、蓮池藩2代藩主鍋島直之公が、佐嘉城に兵学教授のため通っていたが、ここの所に橋がなく随分と遠回りをしなくてはならず、ここに橋を架けられた。橋の名前は、鍋島直之公の戒名に因んで付けられたとのことである。架橋により蓮池往還も賑わったとのことである。 また、了関橋南に鷹匠橋があり、この橋の北側から裏十間川2号分水路で分れ東に流れて、室園橋や安住橋東に進み八田江川に入っている。
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構口橋
この構口橋は、佐嘉の城下町を通る長崎街道の入り口に当たり、通行に際しては、番所を設け取り締まっていた。昔は、現在より少し南に架かっていたといわれる。この橋の西側の町を牛島町と云っていたが現在は東佐賀町に改められている。慶長年間に佐嘉の城下町を作ったので、それに因んで昔の人は、この町のことを慶長町と呼んでいた。
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牛島橋
この橋は、貫通道路建設工事に伴い架けられた。貫通道路は昭和6年12月初旬に材木町までの700米について工事がはじめられた。約5年の年月を要し、昭和11年髙橋まで工事が完成した。
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大正橋
中島蒲鉾店北側の橋で、大財町の道路建設のときに架けられたものであろうか、はっきりしないが明治22年の地図には、道も橋も記載されていない。
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古賀善橋
柳町と高木町の境に架かる橋である。橋の名前はそのままずばりで、古賀銀行を興した古賀善兵衛の手によって架けられたので、その名をとって橋名を善兵衛橋とされた。
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記念橋
大正14年に循誘小学校の50周年記念事業として、小学校の校門から南に通学用の道路として建設されたときに新しくなった。なおこれに因んで記念橋と名付けられた。
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追手橋
柳町と高木町の境、仕出しの兵庫屋側の橋である。紺屋川が南に曲がって行くところの橋でもある。この橋の名がよく出てくるのは、この橋の西南の地に昔『南蛮寺』が広大な敷地を構えて建設された歴史がある。
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柳橋
香月酒屋の側の橋である。橋の親柱は大きくがっちりしている。この橋は、大正4年東に新道路が建設された時に架けられた。この橋の東には、かつて循誘小学校の前身であった柳町校舎があったところで、橋の名前は、川端柳の風情によるとされている。
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日天橋
思案橋の南に架かる橋で、この橋を東に直進すれば旧東佐賀駅に至る道である。この旧東佐賀駅は、地元の熱心な誘致運動により、昭和14年9月開駅に至り、諸富方面からの通勤通学の人達で賑わった。 この橋の南には、材木町の『日天社』がある。この日天社は、材木の中から大日如来の仏像が見つかりこれを祀ったことに因んで、そう呼んだ。 地元住民はもとより、多くの人々が、火災防御の神として、日天杜を尊崇していた。藩主も災禍転除祈願のため、地料を免除していた。材木町の町名もこのことに因んで付けられたもので、日天橋も同様である。
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紺屋橋
紺屋川に架けられているこの橋は、材木橋と同じく貫通道路の建設のときに架けられたもので、材木橋と同様親柱は実に堂々としている。この橋の上には貫通道路の交通が激しくなったので、交通安全対策として陸橋が建設されている。
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涼橋
紺屋橋の南に架かる橋で、材木町の中の橋を東に行ったところである。戦後木橋に架け替えたが、老朽したので現在の鉄筋の橋に改修された。 昔は、大きな船が往来していたので川幅も広かった。したがって人々は、夏の夜はこの橋に集まり涼風を楽しんでいたようである。
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潮見橋
涼橋の南にあって、この橋の西には昔懐かしい大衆風呂の銭湯があった。この橋の南突き当たりが裏十間川の分流と紺屋川とが佐賀江川に合流している地点である。また、橋の東には、六地蔵さんの石造物があり、その北側には、二十三夜尊が祀ってありこの両仏像にはいつも花が飾られている。 この川は、今宿から思案橋の方面にいつも船が出入りしていたが、もともとこの河川は感潮河川で、日本一干満の差がある有明海に通じている。現在でもこの橋下で1米以上の差があり、満ち潮では下流からどんどん逆流し、水が押し寄せてくる。このため橋から潮の状況を見ていたのであろう。
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今宿橋
紺屋町と今宿町との境にある橋である。紺屋町の橋東には、昔からの火見櫓が戦後まで建っていた。その後取壊されてしまった。また、その東の東田代町にはお堂があり、その中には大きな石の地蔵さんがある。八戸町の地蔵さんは有名であるが、それと余り変わらないようである。 また、橋の南の今宿町には大衆風呂の銭湯があったが、各家庭に風呂が普及し、時代とともに廃業された。明治時代の今宿町の繁栄振りの一端を、佐賀新聞記事から抜き書きしてみると次のとおりである。 明治18年 佐賀郡西今宿の前田繁太郎は、同所で蒸気器械精米所を開業。 明治21年 材木町の仁戸田栄太ら4人が下今宿町33に共成社の設立を佐賀郡役所に願い出る。 資本金3,000円、米穀等の売買、貯蔵、保管、貨物運送。 明治22年 下今宿町に、小城郡多久村からの石炭船、長崎県諌早から唐芋船、 福岡県から木炭船がそれぞれ入船。 福岡県から下今宿町船場に五島からの石炭船が入る。 明治23年 船の出入り数(2月)今宿は入り船271艚出船281艚下今宿町、与賀町に巡査派出所が 完成し、近く落成式を行う予定。佐賀郡の牛島〜八田村間の河川工事で下今宿町の船問屋 が、海水を止められ営業できないと県庁へ嘆願、23日佐賀市助役と県土木課属が現地を 視察した結果、県は工事期間中、費用100円で仮掘りの設置を決める。 明治25年柳町の煙草業者森永作平の今宿支店は、24年7月から25年6月まで、豊後、鹿児島産の 煙草葉3,500余表を販売。 明治29年大島貞七、牛島平造、吉田清吉の3人は共同で佐賀郡今宿に佐賀石油(資)を設立。
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曙橋
今宿橋の東220米のところにあるが、この橋で有名なのは毎年8月15日に開催される、盆行事のひとつである精霊流しがこの橋付近で催される。このことについては、別の項目( 行事「今宿(あけぼの橋)の精霊流し」)で記述しているので参照していただきたい。 龍谷学園前から今宿町の間は、現在地元の協力により道路の拡幅工事が着々と進んでいる。このため大きな民家が壊されたり、移転や新築が行われている。それに、佐賀江の河川改修に合わせて岸工事も完成に近づきかつての町の姿は、今大きく変わろうとしている。
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八の坪橋
古代条里制の名残りの名称で、1町(約190米方格)を基準として作られた土地の区画割りで一町方格の地割が縦横にそれぞれ6町、計36町並んだ一区画を里と呼び、里の中の36町には1坪から36坪までの地番をつけた。八の坪はその8番目に当たるところであった。このような同名の橋が北川副町光法から角町にいく道の中ほどにもある。また各地に一の坪、初の坪、帳の坪等という地名が残っている。